第16話 不穏な気配




今日は実験のある日だということで、緋月様は僕を研究室の一室に招き入れてくれた。

見たこともないような機械や器具がたくさん置いてあった。

理科の実験で使ったことのあるようなものもちらほらとあったが、それよりも圧倒的に複雑な器具だ。

薬品の匂いがして、光が遮断されている場所もいくつかあった。


「触ったらだめだよ。爆発するようなものもあるからね」

「は、はい!」

「ははは、そんなに緊張しなくていいよ」


緋月様は白衣を着て、髪の毛を一本に縛っていた。

いつもとは違う緋月様の姿に僕は見とれてしまう。本当に綺麗な人だ。たくさんの男性が憧れるのも解る。

その美しい顔にある4本の傷跡について、聞いてみたいがそのような無粋なことは聞いたらいけないだろうと僕は口をつぐむ。


「じゃあ、今日も血液と、あと唾液と、細胞を少し採らせてもらうからね」


そう言って緋月様は僕に紙を渡してきた。以前もしたことはあるけど、唾液を提供するのはものすごく恥ずかしい。

その紙を口に含み唾液をしみ込ませるというものだ。


「口開けてくれる?」


緋月様は綿棒を持って、僕のあけた口の中の頬の部分を少し綿棒でこすり、細胞を採取した。

僕は渡された紙を口に含んで唾液をつけて、それを緋月様に渡した。


「じゃあ、採血するね」


僕のまくった腕をアルコールでふき取って、そこに注射針を刺した。

あまり痛くはない。ただ、見ていると気持ち悪くなってしまうので僕は目を背けた。


「うん、ありがとう。ここ押さえいて。あとは……」


緋月様が僕の髪の毛を、おもむろにくしで何度かとかしはじめる。


「髪の毛もよしと……」


僕から採取したものを次々と小さいケースに入れて、冷凍庫に保管していた。


「んー、智春君。言いづらいし、君もその……嫌だろうけど、一応聞いてもいいかな?」


緋月様のその言葉に、物凄く嫌な予感がしたのは言うまでもない。


「な……なんですか?」

「その……君の精液もできれば採らせてほしいんだけど……嫌だよね?」


僕は恥ずかしくて緋月様の顔を見ることができなかった。

一瞬でいやらしいことを考えてしまった自分が恥ずかしくもあったし、そんなことを緋月様に言われると思わなかったから正直どうしていいか解らなかった。


「あ、うん。そうだよね。ごめんごめん。今のはナシだね」


緋月様も少し恥ずかしそうに言った。


「あの……気を悪くしないでほしい。変な意味で言ったわけじゃなくて……何言ってるんだ私は」

「いえ、解っているんですが……ちょっと驚いたと言いますか……」


お互いに何とか誤魔化そうと、不自然な会話になってしまう。


「智春君は恋人とか、ほしくないのかい?」


それを見かねて、緋月様は適当な会話を僕に振ってきた。

しかし、そんな悠長なことをここ数日考えたこともなかった僕は、正直なんと答えていいものか解らない。


「そんな、僕みたいな冴えない男に恋人だなんて」

「冴えないなんて、そんなことないよ。君も私の側近として最近報道陣が報道し始めたでしょう? 結構女の子がキャーキャー言っているよ?」

「え、僕のことをですか?」


光さんはそういうファンがいるのは知っているけれど、僕なんかにそんな子がいるなんて知らなかった。


「そうだよ。渉と同じで落ち着いている年下の男の子っていう感じで、20代の女の子から人気なんだよ。知ってる? わ子も実は熱心に言い寄ってくる子がいるんだけど、断固として突っぱねているんだよね……結構お似合いだと思うんだけどな」


渉さんがそういう浮ついたことにうつつを抜かすようには見えないので、妙に納得できた。


「…………でも、僕は……今は仕事に集中したいと言いますか……」

「うーん、若いうちは若いうちしかできないことをした方がいいと思うけどね。仕事なんて、まぁ言ったら赤紙内でいくらでもあるし」

「僕は、一度捨てた命ですから。緋月様の為に――――」


僕の言葉を遮って緋月様は言った。


「智春君、君のそういう優しさは素晴らしいと思うけど、別に自分の命なんだから、自分の為に使わないと駄目だよ。誰かの為とか、そういう生き方をすると後悔する日が来る」


緋月様は悲しげな顔をしているように見えた。僕から視線を外して少し考えた後に、再び僕と視線を合わせる。


「まぁ、君の自由さ。強要するつもりはないよ」


実験の台にもたれかかって緋月様は腕を組んで、片方の手をひらめかせて笑う。


「ところで……園はどうだった? 何か言われたり、聞かれたりしたんじゃない?」


ドキッ……


僕は一瞬心臓が大きく跳ねた。


「……えっと……」

「はぁ……あいつ、余計なこと吹き込んだな……」


僕が何も言っていないのにも関わらず、緋月様に一瞬でばれてしまった。

先ほどは笑っていてくれたが、少し険しい表情となる。


「何を言われたか、言って」

「……はい」


緋月様に嘘をつくことができずに、僕は園さんに言われたことを全部話した。

渉さんのこと、光さんのこと、そして緋月様についてのことを聞かれたことも全部。


話し終わった時に、緋月様は明らかにイライラしているようなそぶりを見せた。

組んだ腕の指をトントンと何度も動かしていたし、視線は僕の方を見ずにどこか遠くを見ていた。

園さんに感じた怖いという感情とはまた違う、別の怖さを僕は感じる。


「……レイのことは、誰にも話したらだめだよ。いいね?」

「はい、もちろんです」


鋭さのある声色で、まるで文字通り釘を突き刺されたような気持ちになった。

その後、緋月様は少し考え込んでいた。無言の間が1分程度あり、僕はその研究室の静けさに、自分の心臓の音が緋月様に聞こえてしまうのではないかと感じていた。


ガタッ。


その静寂を裂くように奥の部屋から物音が聞こえてきた。


「何の音でしょうか……」

「あぁ、気にしなくていい。研究員があっちの部屋にいるから」

「奥にも研究室があるのですね」

「うん。でも、そっちには絶対入ったらいけないよ。まぁ、厳重に施錠されているから入るのは難しいと思うけど……。じゃあ、業務に戻ってくれるかな智春君。園には私から厳重注意しておくから」


けして穏やかとは言えない空気の中、僕は研究室を後にした。


結局、洗いざらい話してしまった。


――園さん……怒られるんだろうな……僕も怒られるのだろうか……でも嘘をつくのは忍びなかったし…………


訳もわからず僕は落ち込んだ。

知ってはいけないことを知ってしまうと、とても気が重くなってしまう。知らなければ良かったかなと僕は思った。




◆◆◆




僕が1日の仕事を大体終えて緋月様の部屋に向かう途中で、前から光さんが歩いてくるのが解った。

手に何やら紙を持っている。

挨拶するべきだろうか。でも、わけも解らず僕は気まずい気持ちだった。


「おい、クソガキ。仕事だ」


少し遠くから光さんは僕に大きめの声でそう言った。


「あっ……はい」

「また黒旗が怪しい動きをしているらしいから、また変装していくぞ」


光さんがまた僕に手に持っていた紙を押し付けてきた。そして僕が歩いてきた方向へ歩いて行ってしまう。


「行くのはカンサが終わった後だからな。早くカンサすませとけ」


もう我儘を言われても、僕も許容してしまう気持ちになってしまった。

そんなことになってしまって複雑な気持ちのまま、深くため息を吐きながら報告書を読んだ。


『何やら黒旗が、赤紙と争う姿勢を見せているところを発見。近日、黒旗と赤紙は激しく対立することがあり、この前の神経毒の件もあるため戦争になる可能性も示唆される』


その一文が目に入ったとき、僕は気が遠くなった。


「戦争……」


そんなのがあったのはもう随分遠い昔の話だ。

今の人たちは戦争なんて影も形もない世代。曲がりなりにも平和に暮らしているのに、どうして争わなければならないのか、僕にはその大義名分を理解することができなかった。

戦うことで何かを得られるのだろうか。戦っても、お互いに失うだけなのではないのか。


――話し合いでは、もう解決できないところまで来てるのかな……


緋月様の部屋に入ると、緋月様は大量のチャーハンを食べていた。アダムが食べる用かと見まごうほどの大皿に、何人分なのかわからない量が乗っていた。

緋月様はちょうど3割程度食べ終わっていた。

味に飽きたのか、タバスコを思い切り振りかけている。

あんなことをして、書類にタバスコがかかってしまわないのだろうかと僕はぼんやりと考えた。


「おかえりー。今日は5区の監査だったよね?」

「はい……渉さんがめちゃくちゃ怒ってました……葉太さんに」

「だよね……わ子、葉太のことがゴキブリよりも嫌いだから……」


5区代表者の葉太さんは、とにかく赤紙の女性を囲い込んではべらせていた。

当然女性たちは葉太の機嫌取りをしている。胸を触ったり、尻を触ったりなど、それがもはや当然だ。

しかし葉太さんはモテるからか、そのセクハラに対して際立った苦情はない。彼女たち自ら進んでそうしているのだろうか。


「葉太さんは、あまり精神疾患者であるようには見えませんが……」

「あぁ……あれはあれで、一応本人の中ではかなりの葛藤があるみたいだけどね。ある程度精神疾患のこともあるから、容認はしてるけど」


色魔だの、肉欲の権化だのと達美さんからこき下ろされているが、セックス依存症なのだろうか。

ただそれだけなら葉太さん本人が恥ずかしげもなく教えてくれそうな感じがしたけれど……


「そういえば、葉太さんが緋月様のことを色々聞いてきましたよ」と、口にしようとしたけれど、下着の色は何色かとか、裸を見たことがあるかとか、緋月に男はいそうなのかとか、ろくでもない質問の内容だったので僕は言わないことにした。


「あの、緋月様……黒旗の動きが最近怪しいと報告が上がっておりますが」

「あぁ、いつも怪しいから気にしてないよ。流石に教祖も赤紙と真っ向からことを構えようなんて馬鹿じゃない」

「だといいのですが……」

「大丈夫。適宜探りは入れているし。今度またレイと一緒に潜入してもらうから」

「本当に僕と光さんでいいんですか? 光さんは全然適任と思いませんけど……」

「レイはあんな感じでいいのよ。わ子はなんだかんだ顔が割れやすいから」


いまいちその真意を掴むことができないまま、僕は「そういうものなのかな」とぼんやりと考える。


「監査が終わった後にやんわり行ってくれたらいいよ。そんなに急務でもないし」

「わかりました」


チャーハンの一角がタバスコまみれになっている。それを特に辛そうにもなく緋月様は口に運んでいた。


「では、失礼します」

「うん。お疲れ様」


ちらりと見るとアダムはいなかった。

緋月様から離れているとき、アダムは何をしているのだろうかとふと疑問がわく。


10区で人を喰っているのだろうか。



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