第5話 心が浮かぶような
「いま戻った」
そんな言葉と共にドアを開ける。
おれはフリィと暮らすようになってから、色々な言葉を使うようになった。そのひとつがこれだ。
もともとおれはそんなに出歩く方ではなかったが、それでも旦那様がいた時はお使いを頼まれることはあった。けれども、こんな言葉を発することはなかったのである。
旦那様はいつも部屋にこもって分厚い本を読み、不思議な色の薬を混ぜたり、肉の塊を切り分けたりしていた。そこにおれが立ち入ることは許されず、また、声をかけることも禁止されていたのだ。
おれに許されているのは、旦那様の命令を聞くことと、外に出て、庭の手入れをすることだった。
だからおれは日がな一日外にいて、庭の手入れをしながら、旦那様が何かおれに言いつけてくれるのを待った。どんなつまらないことでも、何かを頼まれるのは嬉しかったのだ。
屋敷の中は、しんと静まり返っていて、フリィの返事はなかった。いつも小走りで駆け寄ってきて「お帰りなさい」と言ってくれるのに。
「フリィ? いないのか?」
もしかしたら、ここを出て行ったのかもしれない。それならそれで良かったじゃないか、とも思う。ここは彼女のような、美しく若い女がいるべき場所ではないのだ。そりゃあ多少はこぎれいにしているものの、決して住みやすい環境ではないだろうし、第一、おれみたいなのと一緒に暮らしていると知られたら、彼女まで石を投げられるかもしれない。
だけど、せめてこれだけでも贈りたかった。
そう思って、おれは、彼女への贈り物を胸に抱いた。
これまでの礼であるとか、それから、これからの生活への
どうしようか、と途方に暮れていた時、背後から「オイ」という声がした。フリィだ。どうやら外にいたようだ。慌てて振り向くと、彼女は、おれが傷ついて帰って来た時のようにとても悲しそうな顔をしていた。なぜそんな顔をしているんだ。おれは、今日はどこも怪我したりしていないというのに。見ろ、服だって破けてなんかいない。
「フリィ、どうしたんだ。どうして一人で外に出た。外に出る時はおれと一緒にっていつも言っているのに」
「ごめんなさい、約束を破ったりして。でも、声が」
「声? フリィを追っていたっていうやつか?」
「違うんです、子どもの声がして、それで――」
そう言うと、フリィはちらりと後ろを見た。ドアの陰に誰かがいるようだ。それを気にしている。
「誰かいるのか?」
「ええ、その、中に入れてもいいですか? 子どもなんです」
「構わない。ただ、そいつがおれを怖がらなければ、だが」
「それは大丈夫、だと思います。――おいで」
フリィが手招くと、ぼろ布を身体に巻きつけた子どもが2人、おそるおそる、といった様子で顔を出した。彼らはおれの顔を見ると一瞬怯えたような顔をしたが、恐怖を振り切るかのように何度も首を振ると、互いに手を取り合ってゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「オイ、この二人は、これまでこの屋敷の外に置かれていた野菜や果物を食べていたそうなんです。でも、最近はそれがなくなったとかで、食べるものに困っているみたいで。私、あの野菜がこの子達のものだったなんて知らなくて」
「屋敷の外に置かれていた……、ああ、そうだったのか。いや、おれも知らなかった」
どうやらあの野菜達は地面に染み込んでいたのではなかったらしい。彼らが持っていっていたようだ。何だ、それならそうと言ってくれれば。
「オイ、これまでのように彼らにも食べ物を分けてもいいですか? あの、私の分は少なくなっても構いませんから、お願いします」
ころころと色を変えるその不思議な瞳を潤ませて、フリィは何度も「お願いします」と言った。涙の膜はいまにも剥がれ落ちてしまいそうだった。
「構わない。市場へ持っていくのを減らせば済む話だ。とりあえず、腹が減ってるんだろう? ここでおれ達と食っていかないか? 大したものは出せないが」
どうしてそんなことを言ったのだろう。ただ、庭に行って、貯蔵庫の中にあるものをいくつか持たせてやれば済む話だったろうに。たぶん今日はちょっと気分が良かったからだろう。市場でおれのことを拒絶しない人を見てきたから、ちょっと気分が高揚していたのかもしれない。
けれど、そう言ってしまってから後悔した。
市場の人達は、おれのことを何度か見ているから慣れただけなのだ。しかし、この子達はおれの姿を見たことがないはずである。だから、彼らのように受け入れてくれることはないかもしれない。
事実、その二人の子どもは、おれの顔をじっと見つめたまま動かないのだ。小さい方が、頭一つ分大きい方の腕にぎゅっとしがみついている。きっと恐怖で足がすくんで動けないのだろう。ああ、調子に乗ってしまった。これ以上おれはこの場にいない方がいいだろう。やはり貯蔵庫からいくつか野菜を出して柵の前に置いてこよう。
そう思って一歩踏み出した時、大きい方が口を開いた。
「あ……ありがとうございます、旦那様」
それまで男なのか女なのか正直判別がつかなかったが、声を聞いてわかった。こっちは男だ。大人の声になりかけていて、ちょっとかすれている。
「おれは旦那様じゃない。おれはただの使用人で」
旦那様から留守を預かっているだけで、と言おうとした時、小さい方がふるふると首を振った。その動きで、後ろに垂らしていたらしい長い髪がふぁさりと肩の上に乗った。おそらくこっちは女だろう。兄妹だろうか。
「わ……わたし達にとっては旦那様です。いつもわたし達に食べ物を恵んでくださって、ありがとうございます」
「それは」
違う。
別に恵んでいたわけじゃない。
おれはただ、旦那様に言われて、あそこに捨てていただけなのだ。それをお前達が拾っていただけなんだ。
「ずっとお礼をしたいと思っておりました」
少年がそう言うと、少女は掴んでいた腕を放して一歩前に進み出た。
「でも、旦那様のお顔がちょっと怖くて、言えなくて、ごめんなさい」
「良いんだ。おれの顔が怖いのは、自分でもよくわかってるから」
そうだ。
おれの顔は、それはもう怖いのだ。
あちこちつぎはぎだらけで、皮膚の足りないところは獣の皮で補われているため、目や鼻、口は人間だが、それ以外はほぼ獣といっても過言ではない。
どうやらおれは事故に巻き込まれて瀕死状態だったところを旦那様に救われたらしい。優秀な医者だった旦那様は、たった一人でおれの処置をしてくれたのだという。その事故のショックで記憶をすべて失ってしまった俺のために新しい名を与えてくれた。――もっともそれはどうやらおれにはふさわしくなかったらしく、ほとんど呼ばれることはなかったが。
「だけど、フリィさんとお話している時の旦那様は、とてもお優しい声をなさっていたので、その、お顔はちょっと怖いけど、きっとお優しい方なんだな、って思って、その」
そこで少女は一歩、また一歩とおれに近づいてきた。それを兄らしき少年が追い、その手を取る。
「お食事、ご一緒してもよろしいでしょうか」
おずおずと、発せられたその言葉に、胸が熱くなる。鼻の奥がつんとして、視界が霞む。それが涙のせいだとはしばらくの間わからなかった。泣くのには慣れてない。
「いま仕度しますね。さ、オイも疲れたでしょう。座ってください。ほら、あなた達も」
幸いなことに、フリィはおれの涙に気づいていないらしい。いつもと同じ明るい声でそう言うと、もうぼろぼろになったエプロンをサッと着けて台所へと向かった。ああ、エプロンも買えば良かったな、とその後姿を見て思う。
何やらむずがゆい食事だった。
おれの隣にフリィが座り、向かいには二人の子ども。
会話という会話はなかった。子ども達はフリィの作った料理を無我夢中で食べ、彼女はそれを見て優し気に笑う。カチャカチャと食器達がぶつかる音と、控えめな笑い声。そこにあったのはただそれだけなのに、心がふわふわと浮かぶような、何とも言えない気持ちになる。
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