人為

 それからひと月にわたって毎晩のように夜間爆撃は続いた。私はその度に山に登って見物をしながら人の罪と世界の終わりに思いを馳せた。近所に警報が出ることは稀だったし、遠方の空襲でも光源となる火の手と赤黒い空はよく見渡せた。

 特別なことが起こったのは立川一帯が標的になったある夜だった。その夜も重爆の梯団は大挙して西から東へ低高度を悠々と航過していった。焼夷弾が落ちる度に地上の火は火力を増し、地獄の景色へと姿を変えていった。何しろ近場なので空の赤みは天頂を覆って星を隠すほどだった。

 そんな赤い夜空に別の光が走った。その光は一瞬ストロボのように夜闇を白く払い、すぐに赤い炎に変わった。それは重爆の翼から噴き出す炎だった。銀色の胴体にその揺らめきがめらめらと映っていた。

 高射砲か、戦闘機か、わからない。とにかく傷つけられた重爆は次第に左翼を下げ、梯団を離れてこちらに機首を巡らせた。南からぐるりと旋回して高度を下げ、ほとんど真東に見える頃には側面ではなく正面が見えていた。丸い胴体、長い翼、四つのプロペラ。

 あっという間に頭上を掠めて西へ飛び去った。銀色の巨大な翼が手が届きそうなほどの高さを通り過ぎていった。私は思わずしゃがみこんで頭を下げた。耳を塞いだ指を突き抜けて悪魔の叫びのような轟音が鼓膜を突き刺した。そんなに大きな飛行機を見たのも、そんなに大きなエンジン音を聞いたのも、私は初めてだった。神の鳥のスケールを思い知った。

 間もなく隣の山で爆発の閃光が湧き起こり、続いて木々のなぎ倒されるばりばりという音、まるで風圧のような衝撃音が続いた。

 私は動悸が早まるのを感じた。息を飲んだ。すぐそこにあるのだ。戦争がすぐそこにあるのだ。そしておそろしくなった。人間は神の鳥を撃ち落としてしまったのだ。神の裁きに対してすら人間は刃向かうのだ。この仕打ちに対して神はどんな反応を返すのだろう。

 私は墜落現場を見たくなって立ち上がった。だが先に目に入ったのは赤い空に浮かぶ白い落下傘だった。それは方角と距離からしてどう考えても重爆から脱出した乗組員だった。よく考えれば近づくべきではなかったのかもしれない。でも私は畦道を渡り、納屋にあったすきを持って走り出していた。神の鳥に乗っていたのが何者なのか知らなければ。

 走っているうちに墜落現場も見えてきた。ほとんど山の斜面全体が燃え上がり、飛び散った大きな部品が隣の山にまで火事を起こそうとしていた。

 落下傘は山の裏手に降りた。まるで目印のように白い布地が木に引っかかって広がっていた。

 落下傘の主は呻き声を上げながら木の根元に転がっていった。私は鋤を構えながらそっと近づいた。しかし相手も気配で気づいたらしく、右手を差し出して何かを叫んだ。

"Freeze!(動くな)"

 フリーズ……?

 なぜ私の知っている言葉を喋っている?

 相手の右手にあるもの、それは拳銃だった。その時墜落現場でひときわ大きな爆発が起き、相手の顔を明るく照らした。

 それは白人だった。私と同い年、でなくともせいぜい二十五は超えないくらいだろう。「フリーズ」の一言では訛りはわからないが、アメリカ人だろう。B-29重爆はアメリカ陸軍の戦略爆撃機なのだとNHKのラジオでも言っていた。それが正しいなら乗っているのもアメリカ人に違いない。

 アメリカ人なら女学校にも先生が何人かいた。ほとんど女性だったが、男性もいないわけではなかった。彼らは女教師たちの夫や兄弟だった。

"Put the gun down! If you shoot me, MPs will be sure to hear of that, and then shoot to kill you.(銃を下ろして。もし撃てば憲兵が聞きつけてあなたを射殺するに違いない)"私は言った。

 相手ははっとした表情で銃口を逸らし、腕を下した。

"you were on board the B-29, right?(あのB-29に乗ってたんでしょ?)"

"Y-yes. Just a gunner.(ああ、銃手だ)"

 相手は銃の安全装置を入れようとしたのか、右手に目を落とした。私はその時鋤を振りかぶって相手の横っ面を狙って振り下ろしていた。

 相手は銃を取り落としながらも両手で顔面を守った。

 私は相手がただのアメリカ人だと知って安堵すると同時に、堪えがたい怒りに心を焦がされていた。神の標的は人間ではなかったのだろうか。同じ人間が神を騙って同じ人間を地獄に落とそうとしていたというのか。

 いや、そこには人間などという大きな括りはなかったのだ。これは所詮、軍部が喧伝するように日本人とアメリカ人の戦いに過ぎなかったのか。この国はたかが同じ人間相手にこんな圧倒的な力の差を見せつけられていたのか? そして私だってその卑小な国の一員ではないか。

 私はありとあらゆる事実に腹を立て、その怒りを鋤に込めて目の前のアメリカ人の青年にぶつけようとしていた。

「それくらいにしておきなさい」

 二発目のために振り上げた鋤が何かに引っかかった。

 いや、違う。握られたのだ。振り返ると陸軍の制服に憲兵の腕章をつけた男性が立っていた。

「我々がきちんと処罰・・するから、あとは任せて」彼は息を上げながら続けた。かなり急いで山を駆け上がってきたようだ。

 私はすっと心が冷めるのを感じて鋤を下した。

 憲兵は左手で軍刀の鞘をしっかりと支えながら鋤を受け取って地面に置き、アメリカ兵に近づいてゆっくりと拳銃を取り上げた。

 私は風船のように全身の力が抜けてその場にへたり込んだ。

 そうだ。憲兵は「処罰」と言った。 

 私は神を騙った罪を一人のアメリカ兵に被せようとした。そしてアメリカ軍は神の鳥をかたどった重爆でこの国に地獄を作り出そうとしていた。

 神の威力を借りて同類を裁こうとすることこそが人間の本当の罪なのかもしれない。そこにあるのは本物の神の裁きではない。私が見てきたものも模造の地獄に過ぎなかったのだ。

 本当に神が人間を裁こうとする時、東京に生じた地獄とは比べ物にならないほどの景色が現れるのかもしれない。それは私の想像などが及ぶものではないのかもしれない。真っ赤に燃える夜空を見上げながら、私はそのおそろしさにもう一度息を飲んだ。

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天から降るもの 前河涼介 @R-Maekawa

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