第7話
目覚まし時計が鳴り響きます。夢と現実が交錯します。いつの間に、眠っていたのでしょうか。新聞配達のカブが、走り去る音は確認した気がしますが、正確に何時に寝たのか思い出すことはできません。ただ、確実なのはやはり夢で小町に会うことはできなかった、ということでした。このまま眠っていようかとも、思いましたが、今日は小町に会わなくてはいけません。顔がとても冷たいので、きっと布団をでると、とんでもない寒さなのでしょう。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ!
思い切って、布団を蹴りあげて、目覚まし時計をたたきます。
下の部屋に下りると、母はソファーから落ちて、床のうえで丸くなって寝ていました。今日は水曜なので、母の仕事は休みです。このまま寝かせておいてあげよう。そう思い、静かに身支度をととのえました。冷や水で顔を洗うと、目のまわりが燃えるように熱く感じました。鏡の前に座ると、明らかにむくれている、自分の顔がありました。両手で頬を三発たたきました。あまり、痛みを感じません。これは、重症です。
―まあ、あまり痛みを感じないほうが、楽かもしれない。
昨日の今日だったので、そんなことが、ふと頭をよぎりました。今日はどんな一日になるのでしょう。あくびがひとつ、出ました。
あまり深く考えないでおこう。昨日は昨日、今日は今日。自分にそう言い聞かせました。そして母に口パクでいってきますを告げ、家を出ました。
庭の草に霜が降りています。これは寒いはずです。視線をすうと上げていきます。門の前に人の姿が見えました。小町です。心構えができていなかった僕は、胸の高鳴りと声を押さえることができませんでした。
「あっ」
小町の顔は、僕と同じようにむくれていました。いつもは二重の大きな目が、今日は右目だけ二重になっています。
「一緒に、学校、行こ」
いつも、朝が苦手な僕は、小町と一緒に学校に行くことはありませんでした。それも家の前で待っているとは。これは、もしかしたら夢で会っているのかもと思いました。
「これ、夢?」
小町にそうたずねると、小町は八重歯を見せて笑いました。
「そうかもなあ」
ケケケッといつもの笑いをして、小町は、遠くに目をやりました。僕はとにかく夢でもなんでも、言わなければならない言葉をとにかく言おうと思っていました。
「昨日は、ありがとう。そんで、ごめんなさい」
僕は深く頭を下げました。
「うちも、ごめんな。昨日は意地はって、気になって全然寝られへんかった。うち、わがままやなあって思って、ほんまにごめんなさい」
僕が顔を上げると、小町が今度は深く頭を下げていました。それを見て、僕は、もう一度深く頭を下げました。
「はよ、頭あげてよ」
「いやや、小町があげるまであげへん」
「じゃあ、せえのであげよっか」
「うん、いいよ、せえのって言って」
「せえの、はいっ」
二人は同時に顔を見合わせました。
「空、なんかむくれてるで、おもろ」
「こまちも、今日、何かぶさいくやで」
「と、いうことは、いつもは美人ってこと?」
「――さあ、学校行こっ」
僕は小町をおいて、走りだしました。
「いや、めっちゃむかつくわ、待ってや」
二つの白い息は、混ざりあって、空へ上っていきました。秋は、もう終わったようです。通学路よりも近道の草の道を走ると、ミシッミシッと音がしました。時々、小町のほうを振り返って、今日は、先を走っていることに、少し優越感を覚えました。だんだんと呼吸が苦しくなっていくことで、これは夢ではないことを確信し、小町とのことも、これで解決できたなら、最高だなあと思いました。
教室の前へ行くと、僕たちはどうやら一番のりだったようで、まだ鍵が開いていませんでした。
「僕、鍵とりに行ってくるわ、待っとき」
「空、鍵のある場所、知ってるん?」
そういえば、僕はこの学校で鍵を触ったことがありません。そんなに早く学校に来たこともなかったし、日直のときに体育に行く場合でも、女子が、やたらと鍵をしめたがるので、すべてまかせていたのです。しかし、あと少しで小学校も卒業。一度くらい、鍵をさわっておいて、損はないと思いました。
「鍵の場所、分からんけど、職員室で聞いたら分かるやろ」
「うん、まかせた。待っとく」
僕は親指を立てて、小町につきつけました。小町は僕のその手をもち逆さまにして、ブーという顔をしました。僕は思わず笑ってしまいました。そして、人間の仲直りというものを、肌で感じ取るっていうのは初めてだなあと思っていました。
職員室という場所も、滅多に入るものではありません。この前に入ったのは、もう一年も前のことで、たしか、地球儀を運ばせられた時だったと思います。
「失礼します」
周りを見渡すとそこにいたのは、細川先生、一人だけでした。
「山田か、えらい早いやないか」
先生はとても細い、いかにも神経質な顔立ちをしています。くぼんだ瞳は、僕に対しての敵意が見える。そう感じてしまう僕がいけないのでしょうか。
「鍵は、どこにありますか」
先生は鍵がたくさんかかっているところを指さして言いました。
「六年にもなって、鍵のある場所も知らんのか、おまえは」
いちいちつっかかってくるおっさんだなあ、と思い、しかし、口には出さず鍵を取ると、さっさと職員室をあとにしました。
なんだか彼の顔を見ると一挙に疲れが出た気がしました。僕はゆっくりと歩いて小町のもとへと帰りました。
「だいじょうぶ? 何か、顔色悪くなってんで。何かあったん?」
「いや、別に。ただおったんが細川のおっさんだけやったから」
「あんた、ほんまに細川先生のこときらいやねんなあ」
僕は初めての試みで、仕組みのわからない教室の鍵開けに、苦戦していました。
「なんて言うか、生理的にあわへんねん」
「生理的って、生理もないくせに」
いくら、ガチャガチャとゆすっても鍵は全く開く気配がありません。
「生理的って、そういう問題?」
「とにかく、あの人も意外と色々考えてて生徒思いのような気がするで。もうちょっと考えてみてもええんちゃうかなあ」
「何でそんなんわかんねんな」
「うん? そうやなあ、生理のある女のカンってやつかなあ。それより空、早く開けてや、寒い」
「こいつ、開けへんで」
「なんでえや。ちょっと代わってみ」
小町は僕を押しやると、鍵を何回転か回してたやすく鍵を開けました。
「な、開くやろ。空は愛情が足りへんねん」
小町は得意気な笑みを浮かべて、教室の中へ入りました。しゃくにさわりましたが、この鍵が開くように、愛情があれば鍵は開くのかもしれません。細川先生もしかり、なのかもしれません。
「それよりも空だいじょうぶなん。昨日、何時に寝たんよ」
小町はランドセルを机の上におき、僕のほうへやって来ました。よく見ると小町の手にはもう手袋がつけてありました。僕は、久しぶりに冬の道具を見て、一年という時間を感じた気がしました。
「えっ、わからんけど、新聞配達のバイクの音は聞いたから五時ぐらい、かなあ」
小町は片方だけ一重になっている目を大きく開き、そしてゆっくりと口を開きました。
「――もしかして、うちのせい?」
「いや、そういうわけでもない。いろんな事考えてたら、そんな時間になってた」
僕は、そう言いながら、ゆっくりとランドセルを下ろしました。今日は、やけに、ランドセルが重かった気がします。下ろすと、とても体が軽くなりました。
「うち、昨日の夜、ほんまに悪いことしたなって思った。それ考えてたら、ねれへんようなって。でも、うちは、三時頃に寝たけど」
小町が僕のことを思って、三時まで悩んでいてくれた。僕はそれだけで十分、胸の中が幸せに満ちあふれました。
「空、しんどかったら、保健室行って寝てたほうがいいで。うち、ノートちゃんととっとくし」
「うん、ありがとう」
僕は、幸せな気持ちと安心感で、急に眠くなってきました。つまり、僕の気持ちは、かなり、保健室行きへと、魅かれていました。
ふいに、教室に誰かが入ってきました。
「おはよう」
村井君でした。村井君はランドセルを背負ったまま、こちらへと歩いてきました。シャツは、きちんとズボンの中におさめられていました。
「村井君、はやいなあ」
小町がそう言うと、村井君は、頭をポリポリと掻いて言いました。
「いつも、僕、一番早く、来て、鍵を開けてるんやけど、今日、職員室行ったら、鍵、なかったから、誰かおると思ったから」
僕は知りませんでした。この教室のはじまりは村井君なのです。小町も驚いた顔をしています。一体、このクラスの何人の人間が、この教室のはじまりが村井君であることを知っているのでしょう。それを知っていて、村井君をばかにすることはできないだろう。そう思いました。
「それより、きのう、ごめんなさい。ぽく、どうしていいか、わからんから、いちおう、ありがとう、って、言わなって思ったから」
「いや、僕も村井君の気持ちも考えんと、勝手なことして、ごめんな」
村井君は、驚いた顔で、口をぽっかりと開けていました。まさか、僕のほうから、あやまられるとは思っていなかった。そういう顔でした。そして、村井君は、僕の顔をじっと見て言いました。
「なんか、顔色、わるいよ。どうしたん?」
「いや、きのうあんまり、寝られへんかったから」
村井君は顕著に心配そうな顔をしてくれました。そして、頭をポリポリと、また掻いてゆっくりと言いました。
「――もしかして、ぼくのせい?」
僕は小町は顔を見合わせました。そして、耐え切れずに二人で大笑いしてしまいました。村井君はわけもわからず、困り顔で頭を引き続きポリポリと掻いているのでした。
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