第6話
何が起こったのか分からず声を上げることすら、忘れてしまいました。そこには、ソファーにうずくまりうめく母がありました。下には、僕のみぞおちをえぐった何か 父と母と僕が写っている、写真立てがありました。
「――おかあさん」
普通でない状況だけは分かりました。父が死んでから母はまれにこういった動物のような行動をとることがありました。カイリセイショウガイ。これが母の病名でした。
とにかく、母の意識とは全く別のところで母は動くのだそうです。
「――来て、空、来て、母さんのところ」
僕はソファーの横に膝をつき、母をのぞきこみました。母の耳のうえに白髪を発見しました。母の声は、やさしい声でした。震えた声でしたが、怒っているという風ではありませんでした。
「大丈夫? かあさ……」
そう言いかけた時、母の瞳が見えました。その瞳は、黒目のない、死んだ瞳のようでした。僕は殺気を感じました。母の右手が、僕の頬を切りつけるようにうなりました。僕は、肩にかけていた、トートバックを床に落としました。
「あんたも大工なって死ぬんやわ! 高いところから落ちて死ぬんやわ! ほんで母さんは独りぽっちゃわ! なんにも残らん、なんにも……」
大工になって死ぬ。よくわからない。わかることは右の頬が燃えるように熱いこと。それだけでした。僕は、母の右手を強くにぎりました。何も言わず、ただ、にぎりしめました。僕が母にできることは、これぐらいの事しかありませんでした。母の大きく揺れていた背中が、少しずつ落ち着きを取り戻してきました。
「だいぶ、おちついた? ゆっくりでいいから話して、何でこんなことになったんか」
僕はできるだけやさしく、母を抱き起こしました。母は泣きつかれているのでしょう。とても軽く感じました。母は深呼吸をひとつして、本当にゆっくりと話しはじめました。
「今日、塾に電話した。学力テストの点数のことが気になったから、相談しようと思って。いつも、自習室の様子はどうですかって。そしたら、山田君は、自習室に来たことはありませんよって。母さん、びっくりして、先生に、じゃあ、空は、どこにいるんですかって聞いたんよ。そしたら、いつも、松本さんと一緒に来るって。今日は授業も遅刻したって」
僕は、母の手をにぎりしめたまま、何も言えませんでした。あやまることも、この場では違うなと思っていました。秒針を見つめながら、なんとなく、すべてが終わってしまったのかなあという気になっていました。
「悲しかった。かあさん、空のこと信じとったから、今まで、がんばってこれたのに。裏切られ続けとったって……」
母のスカートの上に、涙が一滴、こぼれおちました。僕がさっき流した涙と同じ、おおつぶの涙、大人の涙だと思いました。
「母さん、自分勝手やったかなあって。父さんが、身体を使う仕事の人で、結局、高いところから落ちて、死んでもうた。だから、空には安全な仕事につかせようと思って、まだ、右も左もわからんうちから、塾にいれた。あの子は片親やからって絶対言わせたくないと思って、いろんなこと、一生懸命してきた。……でも、結局、押しつけてただけで、空は、ちっともありがたくなかったんやろうなあって」
「そんなことない! 母さんに僕は、すごい感謝してるで、ほんまに」
すっと口からついて出て来ました。久しぶりに母に素直になれた気がしました。
「いいよ、空、無理せんで。塾の先生が時期も時期やから、空に合ったクラスに変更したほうがいいって、ゆうてはったわ。母さんは、もういいよ。空の好きにして。塾もやめたかったらやめたらいいし、受験も無理にしなくてもいい。空の好きにしたらいい。もう、母さんの言いなりにはなれへんってわかってるから。空は、大きくなったんやって、母さん、よろこばんとね」
言葉とは裏腹に、母の涙は止まりませんでした。初めは、おおつぶの涙が、ゆっくりと、間をもって、落ちていたのが、今はとめどなく、こぼれています。それは、まるで、季節外れの夕立のようでした。母の気持ちを思うと裏切っていた本人すら、哀れでなりませんでした。でもやっぱり、あやまるというのは何か違う気がしました。それで、解決してしまうような問題ではない。そう、僕の頭は判断しているようでした。
塾をやめる。それも、いいかなと考えていました。小町とは、クラスが別々になってしまう。それも、僕は下のクラスへ落ちる。どうしたって、小町と同じ中学校へは、行けない。今のまま志望校を受験したって、確実に通らない。どう考えても、これ以上、僕が塾に行く理由が見つかりませんでした。
何にせよ、僕は何も言うことができませんでした。黙ったまま、やはり、秒針を見つめ続けました。秒針の音と、母の呼吸。少し秒針の方が早いので、ズレていくのですが、また、秒針の音と、母の呼吸が合う瞬間がありました。
ズレても、時間が解決する。そう信じて、僕は沈黙を守りました。母の呼吸と秒針がちょうど、三十回出会ったときに、母は口を開きました。
「おふろ、わいてるよ。入っておいで」
母の涙はいつの間にか枯れていました。母は僕に無理に笑顔を見せました。
「お母さん、一人でも大丈夫?」
「うん、大丈夫。それか、久しぶりに一緒に入ろか?」
ええっ。それはちょっと。と僕は思いました。そして、僕はどうやらこの感情を顔に出してしまったようでした。
「冗談や。はよ、入っておいで、母さんはつかれたから、先に寝るわ」
僕は、母の手を、最後にギュッと強く握り、そして、パッとはなしました。
「ごめんな、母さん」
僕はそうつぶやいて、風呂場へと、足を運びました。それで、すべてが許されるとはもちろん思っていません。僕が母にできることは何なのか。女手ひとつで育ててくれた母に対して、僕は、どういう息子であるべきなのか。そんなことを、僕は、冷えきった風呂場で考えました。
長い一日を洗い流せるほど、うちのシャワーは高性能ではありません。熱いお湯が出たと思ったら、冷たい水が急に出てくる。そんな気まぐれなシャワーでした。その時ははやく修理してもらおうと思うのですが、風呂を出ると忘れてしまいます。母もきっと、同じことを考えて、同じように、忘れているのでしょう。なんだか、そんなことをふっと考えました。
風呂からあがると、母はソファーで眠っていました。起こしてはまずいと思って、僕は母の部屋へ行き掛け布団を取ってきて、母へ着せました。丸くなっていた母は、安堵の表情をうかべ、つぶやきました。
「――ありがとう、父さん」
母は、父さんの夢でも見ているのでしょうか。きっと、辛くて、辛くて、父さんに会いたかったのでしょう。
ふと、小町に会いたいと、思いました。今日はつかれているので、きっと、夢で小町に会えるはずです。いつも、つかれている時は、小町が夢にあらわれます。でも、さっき、今日は、空の顔、見られへんわ、と言った小町の言葉が、ひっかかりました。
僕は布団にもぐり、小町に会えますようにと、お祈りをし、目を閉じました。
村井君のこと。塾のこと。小町のこと。母のこと。そして、僕自身のこと。
布団の中で、いろいろなことを思い巡らせていると、眠れなくなってしまいました。僕はいろいろな人間を悲しませてしまった。その事実は、僕を今日、少し大人にさせました。自分の好きなことをやってればいい。それだけでは、たくさんの人が悲しみに暮れてしまう。結局、自分自身も、悲しみに暮れてしまう。そうは、なりたくありませんでした。そうやって、どうどうめぐりを繰り返している間に、僕は、重大な事実に気づきました。
「イッタイ、ボクハ、ナニヲ、シタイノダロウ」
そう、僕は人を非難することはできても、自分がどうするべきだという行動をとることはなかったのです。自分自身がない。そのことがみんなを悲しませる原因になっているような気がしてきました。僕はその事実に気づき暗い布団の中で、愕然としました。僕をつき動かしてくれるもの、それを必死に探しました。しかし、そんなものがすぐに見つかるはずもありません。とても悲しい気持ちになりました。こんな奴は死んでしまえばいいとさえ思いました。しかし死んでしまっても、母はきっと悲しむでしょう。そんなことでは解決しません。もっと僕の根底に根ざすもの。もっともっと、心のおく深くに常に指令をくだすような存在感のあるもの。そういったものを見つけなければ解決しないのです。
とにかく、僕は、誰も悲しませないように生きたい。僕自身が芽生えるまで、そのことを、心がけようと思いました。
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