第5話

「待って、小町」

 小町に声をかけることができたのは塾を出てからでした。発した声は、白い息とともに小町の耳に届いたようでした。

「何?」

 小町は立ち止まりましたが、こちらへ振り返りはしませんでした。小町の頭上には白い疑問符があがりました。

「今日、ありがとう」

「それだけ?」

 小町は、また、歩きはじめました。僕はいつもと違う小町の雰囲気に、そして、夜空に飲み込まれて立ちつくしてしまいました。小町の背中はどんどん小さくなっていきます。

 いやだ。小町をつかまえないと。

 そう思った時に、僕は、走って小町の肩を捕まえることができました。小町の肩は、冷えきっていました。

「空、ずるいねん」

 小町は、やはり振り向きもせず、そう言いました。僕は、どうしていいか分からず、無意識に、もう片方の手も、小町の肩をつかんでいました。

「なんで、授業終わった後、うちが話しかけるん待ってるんよ。そんなんおかしいやん」

 ずるい。僕は、ずるい。僕の両手は小町の肩からうなだれるようにすべりおちました。

「僕が、お礼言おうとしてんのん分かってたん?」

 小町の後ろ姿をじっと見つめるのは、初めてのような気がしました。結構、髪の毛、伸びてるんだ、なんていうことに意識が逃げようとしていることに気づいて、自分の頬を軽くたたきました。小町は、しばらく黙りこんだ後、僕の質問には答えず言いました。

「村井君の気持ち、分かった?」

 ムライ君。ぬらりひょんの気持ち。やられたとおもいました。すべてはそこへ帰っていたのです。

「ごめん。村井君は自分から礼を言いに来た。僕はそれを当たり前やと思った」

「村井君、お礼言うのん勇気いったと思うで。だって、本当にありがたいかどうかもあやしいやん」

 僕は、小町が拍手をしたとき小町を一瞬恨みました。同じ気持ちが村井君にあったとしたならば。恥ずかしくて、それ以上考えることを僕の頭は拒否しました。

「一つだけ。うちは、空を助けようと思ったんじゃなくて、ほんまに、空の文章がいいと思ったから。スウィートルームに逃げこむ、うちらはきっと『弱虫』じゃないって信じたかったから。――だから、拍手してんで」

 スウィートルームと穴。僕は正直そこまで考えてはいませんでした。不謹慎にも少しおもしろい、と思いました。

「ごめん、とにかく、こっち向いて話ししよ」

 人の目を見て話ができないというのが、こんなに人を不安にさせるというのは、新しい発見でした。とにかく、小町の大きな目をしっかりと見てあやまりたい。それができたら何かが変わる。そんな予感がしました。

「ごめん。うち今日はもう空の顔、見られへんわ。ごめんな。明日になったら、きっと、普通に話せると思う。今日は、ごめん」

 そう言うと、小町は、まっすぐ前を見たまま、歩いていました。そこには、小町の白い分身と、香りだけがたたずんでいました。僕は、白い分身と香りにさえぎられ、もう一度、小町を追うことはできませんでした。

 どうしていいかわからない。

 何もすることができない。

 この思いが、ただただ、頭の中をかけずりまわります。小町はもう見えなくなってしまいました。空にはオリオン座が見えます。オリオン座をじっと見ていると、星の数がどんどん増えていく気がしました。そして、その星たちが、なぜかだんだんとぼやけてきました。ふと、頬に冷たいものがつたいました。こんなのは、初めてです。本当にゆっくりと、おおつぶの涙が出てきます。ぼんやりと、これは大人になる涙なのかもしれないなあと思いました。時間も忘れて、同じ場所に立っていました。苦痛だとは感じませんでした。

「へっくしょん」

 クシャミとともに我にかえり、自分のからだが冷えきっていることに気がつきました。

「帰ろう」

 そう、一人つぶやいて、ゆっくりと歩みを始めました。この道を一人で帰るのは、初めてです。

 小町は塾を休んだことがないんだなあと、小町のことを考えて、また一人で胸をいためました。帰ったら早く寝よう。今日はもう何も考えたくはない。そう思って、小町が最後に言った言葉の意味が、少し、わかった気がしました。

 家の前で、涙が乾くのを待ちました。夜風が僕の頬を切りつけました。何も言わずにドアを開けると、妙なうめき声が聞こえます。

 おかあさん?

 妙な胸の高鳴りを覚え小走りに応接間のドアへ行き、扉を開きました。その瞬間、なにかが僕のみぞおちをえぐりました。 それは音を立てて、床へおちました。

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