第4話
「おっ、山田御夫妻はそろって遅刻か? 何をしとったんや」
「ちょっと、誕生会を。な、空」
塾には結局、十分ほど、遅刻してしまいました。今日は巽先生の国語なので、さほどは怒られない。そのことは確信していました。
「うん、まあ」
「だれの誕生会や。小町か?」
小町は少し考えてから、言いました。
「ううん。将来のうちらの子供の誕生会、かな」
「はいはい、ごちそうさま。もうええから、早く席に着きなさい」
「ごめんなさあい。次から気をつけまあす」
小町があやまると、先生は目を細めて、まんざらでもないという顔をしました。なんだか今日見たことがあった、この場面を見て少しおかしくて、小町にほほえむと小町もうなづいて舌をペロッとだしました。
「さあ、全員そろった所で、いよいよ、受験まで、あと二カ月を切ったな。みんなの顔つきを見ていても、さすがAクラスやなあと、思う子もいれば、あれえ、ほんとにAクラスの子かあ、という子と分かれてきてる気がすんねんな、先生は」
このクラスは、6Aという、3クラスあるうちの、一応勉強が一番できるというクラスです。
一応というのは、このクラスに僕がいるからです。小一から来ているし、親の期待も大きいので、おまけでこのクラスに入っているという感じなのです。小町は文句なしでこのクラスにいるのですが、そんなことからも僕は小町に劣等感を覚えてしまいます。そして、先生の言う「ほんとにAクラスの子かあ」というのも、僕のことを指しているんだ、ということも十分に分かっていました。
「もちろん、先生は、このクラスの子、全員を、有名中学に合格させたいと思ってる。けれど、君たちが、合格したいという気持ちがなければ合格はできない、と思うねんな」
壁には、一人一人の目標が貼ってあります。「初志貫徹」「絶対合格」「完全無欠」「まかぬ種は、はえぬ」「ローマは一日にしてならず」
そして、小町の目標には、「『辛』と『幸』は紙一重」と書いてあります。その横には、僕が真剣に書いた記憶のない「真剣」という、文字があります。
「この時期は、どうしても精神的に不安定になるから、やる気がでない、どうしていいかわからない、とかいう人がいれば、先生にどんどん質問しにおいでや。――山田、目標をぼーっと見てても解決せえへんぞ」
ふと、我にかえりました。みんな僕のほうを見てクスクスと笑っています。先生も笑いながら言いました。
「おかえり、山田。相談おいでや。合格、したいやろ」
「うん、したい」
合格したい。できるはずがない。僕の偏差値は志望校から10以上たりない。でも、母はその学校以外、行かせる気がないのです。合格したい、というのも円滑にことが運べばいい。受験に関してはそれぐらいの思いしかどうしても持てません。小町の目指している学校は女子校なので、逆立ちしたって入ることはできません。そうやって、いろんなことを理由に勉強から逃げている、分かっているのです。でも、どうしていいかわからない。ただ、まがったことは嫌い。小町と一緒にいたい。そのことだけは、はっきりとしています。
「よおし、そしたら、授業やろかあ。先週の宿題は持ってきたか」
みんな、いそいそと机の上に宿題をだします。今日の宿題には、少し自信があります。かなり、がんばってやってきたのです。めずらしく気持ちがのっていた、のでしょう。
「ちょっと、そしたら、問題をよんでくれ。うーん、足立、ちょっと読んで」
「はい。次のイラストでは小さな子供がひとり『あな』の底にしゃがみこんでいますね。男の子かな、女の子かな。そして、上から誰かがなにごとかをよびかけているようです。これはこの子のお母さんでしょうか、それともそうでないのでしょうか。
この子供はどうしてこのような『あな』をほったのでしょうか。いま何を思っていてこれからどうするつもりなのでしょう。また女の人はどんなことを話しかけているのでしょう。いろいろと想像してみてください、そして自分だけの『ものがたり』を自由に作ってみてください。とくにその場の情景が目にうかぶようにこころがけて六百字から八百字にまとめてみてください。題名は、自分の『ものがたり』にふさわしいものを自由につけてください」
「うん、ありがとう。こういうふうに、最近の受験問題というのは、ただ、文章を読んで、問題が解けるだけでは、だめやねんな。ただし、何を書いていいというわけではないで。きちんと出題者の意図にそって書いていかんとあかん。よう問題を読まんとあかんというのは一緒やってことやな。わかるかな」
先生の眉毛が、上下に動きます。これがゲジゲジまゆげだ、という眉毛は見ていてあきさせません。
「よし、そしたら、書いてきたものを読んでもらおうかなあ」
みんな、サッと顔をふせます。こういう時、目を合わせるとまちがいなく当てられます。小学校の低学年の頃は、みんな、我先にと手をのばし、両手をあげたり何度もハイハイと言ってみたりしていたのですが、いつからか、誰も手をあげないどころか顔をふせるようになってしまいました。
「小町、今、目があったなあ。読んで」
「えーっ! 目なんか、あってへんて。いやや、読みたくないって!」
「なんでえ、読んでや」
自分の危機を免れると、みんなの顔が、すこしずつ、あがってきます。僕は、NHKでみた、植物が、育っていくようすを早送りにした映像を思いだしました。それにしても小町というのは、よく先生に当てられます。
「わかった、読む。笑わんといてや。」
結局、読むことになる。先生もそれが分かっているから、よく当てるのでしょう。小町は、いそいそと立ちあがり、ゆっくりと読みはじめました。
「題、大きなありんこ、松本小町。青い青い空の下、少年はふと思いました。
『ありの巣はどこまで続いているんだろう』
少年はかけだすと庭の倉庫からスコップを取り出し、家の前に立ちました。
ありの巣を見つけると、少年は右に左に土をかきわけ、気がつくと、自分の背より高い穴をほっていました。ひんやりとして、少し暗い穴の中で少年は腰をおろして、ほっとひといきつきました。
空を見上げました。
青いのです。しかも、大きいのです。暗く、そして狭い穴の中から見る空は大きく青かったのです。少年は少し驚きましたが、同時に気がつきました。
『自分はすごし小さいんだ。ありさんはとても小さいと思っていたけれど、それは僕の思いちがいだ。大きな空や海の中ではとても小さいものだった』
そして、思いました。
『大きな人になろう。でも、どうすれば大きな人になれるんだろう』
そんなことを考えながら、ぽーっとしばらく青空を聞こえました。
『あらまあ。ずいぶんと大きなありさんがいるわねえ』
少年は、ずっと見上げていたので痛くなってしまった首を横に思いきりふりました。
『ううん。ぽくはとっても小さいよ。お空の雲にくらべたら、ぼくはとっても小さいよ』
お母さんは、フフフと笑って言いました。
『じゃあ、早くごはんを食べて大きくならないとねえ』
少年は、お母さんの暖かい手をにぎり、道の上へとはいあがりました。
大きな空には、大きな夕日が、もう、落ちているのでした。
――っていう感じです。おしまい。
はずかしいっちゅうねん」
小町が、ストンと席に着くと、みんなから笑いがおきました。女子の一人が、「小町、かっこいい」とはやしました。僕はというと、小町が読んでいる間中なぜか、緊張していました。
たぶん、顔も赤くなっているので、みんなに悟られないように、両手で顔をゴシゴシとこすりました。
「はいはい、静かに。小町、ありがとう。すごくよかったよ。100点満点や」
「ほんまに! うち、すごいんちゃうん!」
「調子にのるな。いや、でもちゃんと問題読んで、的確に出題の意図がつかめてる」
先生の眉が満足気にゆれました。僕はまずい、と思いました。たしかに、僕は昨日一生懸命、宿題をしました。しかし、イラストを見て書いたというだけで、問題文をまるっきり無視していたのです。
「次は、続けて旦那さんに読んでもらおうかあ」
嫌なときに限って必ず、こういう事になります。神様はきっといます。そして、こんな僕を見て、ほくそ笑んでいるはずです。
「はよ、読んでや、はい、さっと立つ」
先生の眉毛のリズムに合わせて、僕も腹をくくりました。
「題、人、それぞれの考え。山田空」
小町の方を見ます。小町の口が動きます。ガンバレ。そして、満面の笑み。少し楽になりました。
「穴の中にいる男の子は、今、自分が生きている社会が、きっといやになったのだ。だから自分一人で、自分のやり方で生きたいと思って、穴を掘ったのだとおもう。
でも、穴の上にいる人は、今のみんなが生きている社会へ帰ってきなさいと言っている。それは、家族の人か周りの人で、その人たちも、その人なりにこの今の社会で苦労しているのだから、君も、楽をするのではなく、つねに苦労して生きていかねばならないと言っている。そして、だいぶたって、最初は、自分のやった事に対して、よかったと納得していたが、穴の上にいる自分の周りにいる人にいろいろ聞かされ、やっぱりもとの社会に帰ろうかどうか、とても悩んでいる。もし帰って、また、以前の生活に戻っても、決してこの社会が好きになるわけではない。そして、また穴をほり、一人に帰る。でも、穴の上の人は、君のかんちがいだ、苦労することによって、この社会で喜びというものが生まれるのだと強く、言う。
もし、そんないやな事がたくさんあるのなら、それを、少しでも、克服しようとしなければ、君は、いつまで立っても『弱虫』でいるのだよ。それがいやなら帰って来なさい。と、言っている。
穴の上にいる人は、穴に入って、一人でいる事を『弱虫』だと思っているが、穴の中にいる男の子は、穴の上にいて、いいなりになることが『弱虫』であると思っている。人間というものは、いろいろな考えがあり、それがぶつかり合って、なりたっているのだ」
大きくため息をついて、原稿用紙から目を離すと、まわりの空気がわかります。よく、テレビで、漫才師の人が「サムい」と言っていますが、まさに、それでした。やっぱり、へんに、はりきるんじゃなかった。そんな思いで、ゆっくりと席に着きました。先生の眉毛に、そっと目をやりました。困った毛虫を見たときに、僕はもっとさみしい気持ちになりました。
その時です。おもむろに手をたたく音が聞こえました。
「めっちゃええやん! なんか、むっちゃかっこいいいって! うち、ほれ直したわ」
拍手の主は、小町でした。その拍手に押されて、他の人も拍手をしはじめました。先生の大きな手も、ゆっくりと動いてたたきはじめます。僕は、恥ずかしくって、顔をあげることが、できませんでした。小町は、なんだって、こんな事をするんだろう。そっとしておいてくれれば、この場は、そのまま流れてくれたのに。少し、小町を恨みました。
「うん、山田ありがとう。でもなあ、それでは、点数になれへんわ、残念ながら。だって、それ、『ものがたり』じゃないもん、わかる? 山田。ちゃんと、問題読まんと」
小町のおかげで、「サムい」空気はなくなりました。この後、全員の「ものがたり」が教室の中で、飛び交いましたが、僕の頭に残るようなものは、ありませんでした。というより、ぽくはもう何も考えることができなかったのです。小町の顔はもちろん見ることはできず、ただ、先生の眉毛をぼんやりと眺めていました。
なぜ小町はあんなことをしたのでしょう。とにかく、あの空気の渦中の人であった僕を救おうとして、やってくれたのかもしれません。他に方法があったにせよ、やっぱり小町にはひとこと、お礼を言うべきだと思いました。もうすぐ、授業が終わります。授業の終わり頃になると、先生の毛虫は汗でしっとりとしてきます。
「ようし、そろそろおわろか。起立、姿勢を正して――礼!」
掛け声とともに、みんないっせいに教室の外に出ます。僕は、わざと片付けるのを遅くして、小町から、話しかけてくるのを待ちました。すると、小町は、僕の横をすどおりして、教室をでていきました。僕はかなり焦って、急いで帰る用意をして、でそうになった、あくびをこらえて、かばんを肩にかけました。
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