第3話

 外はすっかり秋です。吸いこむ空気に冷ややかな風を感じます。夏には、緑の葉をたくさんつけていた木々も、すっかり赤くなっています。空に浮かぶ雲も夏はあんなにも近くてはっきりと見えていたのに、秋の空はなんだか遠くまであるような気がします。僕が一番好きな季節は秋です。夏は暑いし、冬は寒い。春はあたたかいのですがその期間がとても短く、すぐにうっとうしい梅雨に入ってしまうのできらい。そんなわけで秋なのです。

 秋をもっと確かに感じたいと思って、僕は走りだしました。走っていてもつらいとは感じません。流れ行く景色はいつもと違って見えるし、呼吸が荒くなるたびに吸いこまれる空気は秋のにおいがたっぷりふくまれているからです。なんだかふと、算数の問題が頭に浮かびました。

「空君は、塾まで一キロメートルある道のりをいつもは二十分かけて歩きます。しかし、今の季節は秋。あまりにも気持ちがよいので全力で走ってしまいました。すると塾へは五分でつくことができました。さて、空君は秋の気持ち良さに時速何キロメートル分、後押しされたでしょう」

 と、問題を走りながら作成して、思わずほくそ笑んでしまいました。こんな算数の問題なら喜んで、解くのになあと思いました。

 まもなく、小町とのスウィートルームに到着します。スウィートルームは塾までの道のりの途中にある石材屋にあります。「橋本屋」と書かれている石でできた鳥居をくぐり、小町の待つ所へと急ぎます。砂場に足をとられてこけそうになりながらも走り続けました。そして、高く積み上げてある石によじ登り、一番てっぺんまで登ります。すると、今度は石の隙間に体を入れて石をつたいながら、慎重に地面のほうへと下っていきます。そうすると、積み上げられた石の内部へと侵入することができるのです。その中は、石の隙間から入ってくる光があるだけで全体的に暗い感じです。けれど、僕がはじめてこの空間を発見した時とても明るく感じました。それは、きっと「秘密基地」を見つけた喜びが胸の中で踊っていたからだ思います。


「おそいで、何しとったん」

 下から小町の声がしました。そうか、僕は村井君と一緒に帰るのを避けるために、あくびがでるのを待ってたんだ。

「ごめん」

 ひとこと言うと、小町の横へ慎重に下りて腰を下ろしました。「スウィートルーム」は薄暗いうえに、床の間ぐらいの広さしかありません。だから、無意識に小町と、体が触れ合います。

「何してたん、おそかったやん」

 僕は、少し考えてから言いました。

「いや、村井君につかまっとってんやんか」

 言ったあとに「つかまってた」という表現はずるい表現だと気づき、気になって小町の目を見ましたが彼女の瞳に疑いの色はありませんでした。

「そうそう、何かもりあがっとったなあ、社会の時間に。あれ何やったん?」

「うん、村井君な、休み時間に地図記号勉強しとったのに先生にとばされたから、村井君の気持ちも考えたれよ、と思って」

 小町は難しい顔をして、だまっています。小町の考えている顔はいつもの小町の顔と違い、お姉さんの顔になります。そんな時、前に母が女の子のほうが成長が早いんだからだまされちゃだめ。と言っていたのを思い出します。

「おせっかい」

 小町がぼそっとそう言ったのを聞いて、僕はおどろきました。そして、なんだか急にはずかしくなってしまって、あぐらをかいている自分の太ももを見たまま顔をあげることができなくなってしまいました。

「怒った? でも村井君も悪いと思うよ。だって、いつも村井君がだんまりしてるから先生もとばしたんちゃうん。日頃の行いっていうか、都合がよすぎると思うねん。村井君が」

 おこっているわけではありませんでした。小町の言っていることは全部正しいし、それだけに、はずかしくて顔を上げることができませんでした。そして、やっとでた言葉は自分でもばかげていると思いました。

「かわいそうやと思ってん。村井君が」

 かわいそうやと思った。自分から、その言葉がでたことにおどろきました。僕は村井君をかわいそうだと思っていたのです。もし、自分が同じ立場で他人にかわいそうだと思われたとしたら、きっと余計なお世話だと思うはずです。すこしの沈黙。たえきれずに顔をあげて、おそるおそる小町を見ました。

「そんな空、うち、きらいちゃうよ」

 小町は、たしかに、ほほえんでいました。秋の日は短く、僕が少しうつむいている間に、もう薄暗くなって、小町の顔がはっきりとは見えませんでした。でも、たしかに小町はほほえんでいました。小町の八重歯が、ほのかに赤い大気の中で浮かんでいるのです。


「なんか、暗くなったなあ」

 小町が、そう言ったのを、僕は、どちらの意味でとったらよいかわからず、ただ、小町の八重歯を見つめていました。

 すると、小町の八重歯が突然揺れたので、僕は焦点をずらしました。

「そうや! 今日な、家からええもんもってきてん。空、見たい?」

「ええもん?」

 小町は、おもむろにかばんの中をさぐりだします。

「あった。――ジャーン!」

 とりだしたのは、マッチでした。

「マッチ? ええもん?」

「うん、すっごく。つけるで」

 小町がマッチを擦ると、辺りはたちまち夕日の赤を打ち消すように、炎の赤へと変わりました。小町の得意げな顔がはっきりと映し出されます。

「明るくなったやん。これが、ええことの一つ目。んでな、もう一個あんねん」

「もう一個?」

 小町は、マッチをふっと吹き消しました。さっきよりも辺りは確実に暗くなっている気がします。

「ちょっと、においかいでみて」

 小町が、クンクンと鼻をならしながら八重歯だけを暗い中で浮かび上がらせているので、僕は少しおかしくなってしまいました。そして、小町の言うように、においをかいでみます。マッチを擦った後の残り香がほのかにかおります。

「何か思い出せへん? うちはこのにおいかいだらすっごい思い出すことあんねん」

 思い出すこと。昔、近所で火遊びをしてておじさんが来て「火遊びする子はおもらしするぞ」って、怒られたこと。おもらしなんかするわけないと思って、家へ帰って寝て起きたら、見事におもらししててびっくりしたこと。そんなこと、すっかり忘れていました。

「おもらし?」

「は? おもらし? 何、それ」

 はっ、と思いました。よく考えたら、はずかしくて小町にそのことは隠していたことも忘れていたのです。

「なんにも、ない。なんにもないよ。で、何を思い出すん?」

「いや、ずるい。何でおもらしなん。かくしてたら『おもらし空くん』って呼ぶで」

「そんなん言ったら、家からマッチを持ってきたこと小町のお母さんにばらすで」

 言ってから、しまったと思いました。こうして、僕はよく自分のずるさに自分がいやになります。小町の顔があきらかに曇ったことは、八重歯が見えなくなったことでわかりました。

「ごめん。でも、おもらしのことは言われへんねん。おもらしのことは。でも、言うタイミングが来たら、絶対言うから、おもらしのこと」

 僕はまじめにそれだけのことを言うのがやっとでした。すると、小町の八重歯がまた、ふっと浮かび上がりました。

「そんなに必死に『おもらし』って連発しなや。んで『おもらし』のこと言うタイミングって、どんなときなん?」

「えっ、だから『今こそ、うちあける時だ』って感じで」

 小町は、声を出してケケケッと笑いました。この笑い声に僕は救われた気持ちになりました。

「いいわ。許してあげる」

 僕は小町に嫌われることを、必要以上に恐れている。そのことが小町のことを好きということにつながるのでしょうか。ふと、そんなことを考えたりします。眠る前に、小町のことを考えて胸が高鳴ることがあります。そして、小町が僕より先に死んだらどうしようかということを勝手に考えて、泣いてしまったこともあります。

 スウィートルームという名前は、小町がつけました。僕は、ただ二人の隠れ家だと言ったのですが、小町はそれじゃあスウィートルームだ。と言ったのです。「スウィートルーム」そのなんだか知らないけれど、大人の香りのするその響きに、とりこになってしまいました。そして、これも夜中にスウィートルームという名前をつけた小町の気持ちを勝手に想像して、一人、寝床でほくそ笑んだりします。


 小町のことが好き。


 この言葉が頭に浮かぶと、僕は、すぐに打ち消そうとします。たまたま近くにいる女の子だっただけ。そう自分に言い聞かせるのです。だって小町はきっと僕のことなんてただの幼なじみとしか思っていない。そう思うと、こっちばかりやきもきするのもしゃくだから。

 パッと辺りが赤くなります。小町の顔がすぐ横にあります。小町に心臓の音が聞こえないように、思わず胸に手をやってしまいました。

「たんじょうび」

 小町は大きく目を開いて、言いました。

「タンジョウビ? 小町の?」

「ちゃう。うちの誕生日はもう過ぎたもん。……におい、このにおいかいだらな、誕生日、思い出すねん。空も、におってみ」

 ほんとうでした。たしかに誕生日のにおいがします。ろうそくを吹き消したあと、母が手をたたいておめでとうを言ってくれる、あのにおい。それと同じにおいでした。

「なんか、プレゼントもらえそうやん。だから、なんか幸せな気持ちになれるねん。これが、ええことの二つ目。―あつっ」

 小町が、ふっとマッチを吹き消しました。小町は、またケケッと笑いましたが、もう暗すぎて小町の白い八重歯すら、見えなくなっていました。

「だいじょうぶ? やけどしてない?」

「うん。空がわるいんやで。何も言ってくれへんから、ボーっと待っとったやん」

 あまりにも誕生日というたとえが見事だったので、僕は何も言えませんでした。小町のこういった突拍子のない言葉に、僕の口が開くことを忘れてしまったことが前にもあった気がします。

「ごめん。誕生日のにおいしたで。小町ってすごいなあ。だから国語できるんやなあ」

 暗さに少しずつ慣れてきて、小町の顔の輪郭だけ浮かび上がりました。

「国語? それは、関係ないで。だって、問題解くとき、自分の考えとか感性は入れたらあかんって、巽先生が言うとったやん……っていうか、今何時なん?」

 僕も、時間のことをすっかり忘れていたので焦りました。母に誕生日に買ってもらった時計のバックライトボタンがはじめて役立った気がします。

「やばいで、もう六時まわってるで」

「うそっ。遅刻やん。急ごう!」

 小町はそう言うやいなや、立ち上がり石をかろやかに登っていきました。僕は忘れ物がないか確かめていました。いや、正確には誕生日と小町のにおいの余韻にもう少し浸っていたかったのだと思います。

「はよ、行くで、おもらし空君」

「ああっ、言うなって言うたやろ!」

 僕も立ち上がり、小町の後を追いました。秋のはずだった空気は、日が落ちて冬のそれに変わっていました。

 小町の背中を追って、そして冬の冷たい風を切って走る自分を、なんだか象徴的だなあと思い、複雑な気持ちになりました。

 いつになったら、僕はこの冬の風に勝って、小町の背中をつかまえることができるのでしょう。今のままではいけない。そのことは、ぼんやりと分かってきているのですが、何を僕がすべきなのか、何を僕は求められているのか。その僕の心の叫びは、小町には届くはずもなく、冬の風にかき消されてしまいました。

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