第2話

 やっと、おおきなあくびがでました。

 あくびを待つこと三十分。帰るのが遅くなってしまったので、急いで家へと帰りました。家ではすでに母が、食事の用意をして待っていました。

「おそい、なにをしとったん。あんた今日も塾の自習室に行くんやろ。だから母さんはよ帰ってきて食事の準備してんのに」

 母は不服そうにポットのお湯を茶瓶にいれて、ゆっくりとそれをまわしました。僕はその茶瓶をじっと見ながら、テーブルの椅子に腰掛けました。

「今日は、学校で変わったことないのん」

「うん、べつに」

「あんたは毎日なんにもないんやなあ。ちゃんと先生の授業聞いてるか」

 先生の授業を聞いてると変わったことがあるのか、と思いながら、それを口には出さずゆっくりとお茶を飲みました。

 テーブルの上には僕の好物である「母の作った」八宝菜がおいてありました。母は料理がとても上手です。母は高校生のころ「全国高校生クッキング選手権」で優勝したことがあると、なぜか近所のおばさんから聞いたことがあります。

 僕は八宝菜を味わいながら食べました。その間も母は僕に話しかけてきます。

「あんた、この前の塾の学力テストの点数はなに? カバンの中に入ってたん見たよ。もっとがんばらんと」

「うん、ごめん」

「なにが『ごめん』よ。別にお母さんが困るんちがうよ。あんたが困るんやで。ほんまになんのために小一から高い金を払うて塾に行かしてる思てんの」

 なんのために―。それはきっと、よい中学校に入って、よい高校にあがって、よい大学に行くためです。そして、母が納得する職業につくことでしょう。


 僕の父は、この世にいません。


 母は僕が小さいころほとんど仕事ばかりで、ちっともかまってくれませんでした。その証拠に幼稚園の送り迎えもみんなはお母さんがしてくれているのに、僕は一人で行き帰りしていました。ハンカチもくしゃくしゃのが、ポケットにいつも入りっぱなしになっていました。

 ある日幼稚園から帰ってくると、母が泣いているというよりは叫んでいるというような声を出してうずくまっていました。すごく恐ろしいものを感じながらも、母にそっと近づいて行きました。すると、母はおもむろにぼくにだきついて、つぶれるかと思うほど、つよく胴をしめつけました。

「おとうさん、アー。おとうさん、アー」

 この言葉を母はとにかく、くりかえしました。僕は恐ろしくて母のことを見ることができず、ただ茫然と時計の秒針が回るのを見つめ続けました。その時、秒針が六秒進むごとに分針が少しずつ進むのだということを発見して、そのことを母に伝えようとしたけれど、相手にされなかったので僕も泣いてしまったということを鮮烈に覚えています。

 その後、お葬式の準備が着々と進んでいくのを見て父が死んだのだということをなんとなく理解しました。大人の話を障子越しに聞き、父は仕事中高いところに登り、足をすべらせて地面に落ちて死んだのだということも知りました。しかし、どんな大人も、僕に直接父が死んだのだということを教えてはくれませんでした。ただ知らない人に「君のお父さんの建てた家はすばらしい」というようなことを何度も言われました。それも一人ではなく何十人と言うので、なんだか自慢気な気持ちにもなりました。

「お父さんの建てた家って、すごいん?」

 と母に聞くと、母は露骨にいやな顔をして何も答えてはくれませんでした。

 葬式は近所の公民館を借りて行われました。

 公民館のにおい。お坊さんの頭。父の笑顔。見たこともない親戚。紫色のザブトン。黒と白の縞模様。お経と木魚のリズム。

 すべてが物珍しく、悲しい気分にはなりませんでした。父と最後の別れということで、かんおけが目の前にだされ、花に埋もれた父を見たとき父が亡くなったことについてはじめて涙が流れました。しかし、やはり悲しいという感情ではなかった気がします。なぜか涙だけが、ほおをつたうのです。周りの人達は僕の涙を見て、つられるように涙を流しだしました。ああ、これがもらい泣きか。なんて冷静に分析している自分がありました。

 父が死んでから、母は妙に僕のことを面倒見るようになりました。幼稚園の行き帰りも一緒になったし、ハンカチにアイロンをかけてくれるようにもなりました。

 そして、ハンカチにアイロンをかけるのと同じように、小一になると、僕を塾へと通わせました。


 入塾テストで、小町と一緒になりました。

「松本小町です。すうーっ、趣味は読書です」

 と言っていたのが印象的でした。その後、僕は近所に住んでいたこともあって、一緒に塾へ通うことになりました。

「どんな本読んでんの」

 そう小町に聞くと、小町は、大きな目をまるくします。

「本? そんなん読めへんよ」

「でも、入塾テストで、趣味は読書ってゆっとったやん」

「ああ、あれはうそ。うそもホウゲンってお母さんが言うてたから」

 と言って、ケケッと笑いました。その時の小町の笑い声に僕の胸はなぜか高なりました。

 なんのために塾へ行くのか―。よい中学校に入って、よい高校にあがって、よい大学に行く。こんなことは、今の僕にとって実はどうでもよいことでした。正直に言うと、小町と一緒にいることができる。これが僕の感じるただ一つの塾の存在意義でした。しかし、母の作った八宝菜を食べおわり、母の入れたお茶を飲んでいる今、母を悲しませたくはないという思いが走りました。

 僕は決して母が嫌いではない。むしろ、ここまで育ててくれている母のことを感謝しているし、好きなのです。

「ごちそうさま。もう、塾行って、勉強するわ」

「がんばりや。期待してんで」

 母は、僕の背中をポンとたたくと、食べ終わった食器を炊事場へと運びました。僕は黒いトートバックを手にもち、白いデッキシューズをはきました。そしてひとつ、伸びをしてから、いってきますとひとけり、玄関をとびだしました。向かう先は、小町との「スウィートルーム」です。

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