あくび
いぶし 鈴
第1話
ぼくはひとつ大きなあくびをしました。
「キリツ、レイ」
窓の外を見ました。雲ひとつないいい天気です。ぼくの視界をさえぎるように、ヒトが周りをウロウロとします。左の席の女子は、流行りのアイドルについて熱弁しているようです。
斜め前の席では、さっきの授業からずっと村井君が下を向いたまま、肩を震わせていました。
今日のはじめの会で先生は「いじめ」について話していました。「いじめ」は、相手の気持ちを考えて行動することで防ぐことができる。そんな話だったと思います。
相手の気持ちを考える―あの先生は、いつも、相手の気持ちを考えて行動しているのでしょうか。
さっきの社会の授業中のことです。今日の授業は黒板に書いてある地図記号を順番に何の記号か答えていくというものでした。
ぼくたちは、こういったクイズ形式の授業が大好きです。みんな水を得た魚のように盛り上がっていたのでした。
「よーし。この地図記号はむずかしいぞー」
先生が言ったその問題は、村井君にあたる番でした。僕の斜め前に座っている村井君は、ぬらりひょんと呼ばれています。あまり人と話しすることがなく、いつもボーっとしているのでついたあだ名です。しかしその日の村井君は、いつもとちがいました。
社会の前の休み時間、村井君はずっと地図記号とにらめっこしていました。僕は少し興味をもったので、ゆっくりと席を立ち村井君に話しかけてみました。
「勉強?」
村井君は少しおどろいた顔をした後、すぐにいつものぬらり顔に戻りました。
「うん。いつもわからんからあてられてもなにもこたえられへんからきょうはぼくもおぼえられそうやからきょうはこたえたいから」
そう早口で言いおわると、また、地図記号とにらめっこしてブッブツと言い始めました。あんまりじゃましてもわるいかなと思ったので、席に戻り僕はひとつ大きなあくびをしました。
村井君は次の問題が分かるみたいでした。なぜなら、いつもより少しだけ村井君の目が大きく開いていたからです。
その時。
「ムラ……いや、楠田、次の記号はなんや」
先生は何と村井君をとばして、その後ろに座っている優等生、楠田君に当ててしまったのです。
楠田君は、すぐに「発電所」と答えました。クラスのみんなは、難しい地図記号を見事答えた楠田君に、尊敬のまなざしを送りました。
「よおし、さすがは楠田や。みんな拍手」
割れんばかりの拍手の中で、僕だけは、村井君をじっと見ていました。村井君は、楠田君が当たった瞬間、一番大きく目を開きました。そして、その後は、ずっと下を向いたまま、肩を震わせていました。
本当はこの拍手、村井君に送られるはずだったのです。それが先生の「村井はどうせ答えられないだろう」という勝手な判断で、村井君にとってチョウショウの手拍子となってしまったのです。
僕は、いてもたってもいられなくなり、おもわず、両手をついて立ち上がってしまいました。みんなの視線は、セツナに僕へと集中します。
「先生、村井君が飛ばされています」
先生は、またコイツか、という顔で僕を見ました。そして、村井君に一瞬、目をやると、猫なで声でこう言いました。
「おお、村井、すまんなあ。そしたら、次のこの地図記号は何か分かるか?」
村井君が顔を上げることはありませんでした。ただ肩をグラグラとゆらしていました。
「ぬらりひょん、グラグラしてるで。これやったら『ぐらりひょん』やん!」
楠田君は大声で、そう叫びました。クラス中に笑い声がこだまします。先生も少し笑った顔でした。
「はいはい、静かに。村井、どうもわからんようやなあ」
と言いながら、僕のほうを見て、先生は不敵な笑みを浮かべました。
「山田は座りなさい。この地図記号については、あしたまでの宿題にするから、みんな調べてくるようにな」
僕はゆっくりと席につきました。そして、このばかばかしい茶番に、あくびのひとつでもしてやりたいと思いましたが、村井君の事を思うと、そのあくびは、ため息にしかなりませんでした。
「空、なんでひとりでもりあがってたん?」
今度は、僕の視界に、小町の顔が飛びこんできました。
「小町って、ほんまに、鈴沢麻里に似てるねんなあ」
小町は、最近、テレビでよく見かける鈴沢麻里という人に似ていると評判でした。特に、パッと視界に飛びこんできた時は、本物と見まがうほどだったのです。
「なにゆうとん。うちのほうが千倍かわいいっちゅうねん」
「そうかもなあ」
「なんで遠い目してんねんよ。よう見いや、うちの顔…… あっ、先生来た。続きはスウィートルームで話そ」
小町は、ちょっといいにおいをのこして、小走りに自分の席へと戻りました。
「小町、ちゃんとチャイムが鳴ったら席につかなあかんやないか」
「はあい。ごめんなさあい」
小町はすこしおどけたようにあやまりましたが、先生は、目を細めて、まんざらでもないという顔をしました。その顔のせいで、小町のいいにおいは、僕の中でかき消されてしまいました。
「コレカラオワリノカイヲハジメマスキョウヨカッタコトヤワルカッタコトハアリマセンカアリマセンカアリマセンカコレデオワリノカイヲオワリマスキリツ」
いつものように、日直がこのせりふを言うとつまらない仕事場から解放されます。
「レイ、サヨウナラ」
みんな適当にサヨウナラを言うと、ゴム風船が割れたように教室の外へと飛びだしていきます。僕がゆっくりとランドセルを背負っていると、目の前にトナカイ鼻の村井君がぬらりと立っていました。そして少しの沈黙の後、ポソリとつぶやきました。
「あの、さっき、あり、が、とう」
僕は、何と言ったらよいのか分からずただ立ちつくしていました。村井君もそれだけ言うとまた、下を向いてしまいました。
「ぼく、かえります」
村井君はふんぎりをつけるように、右足を大きく前へだしました。続いて、左足を大きく前へだしました。そして、少し止まってふと、ふりかえりました。
「それと、さっきの、コウヨウジュリン」
右・左・右・左と村井君は足を前へだしていきました。後ろから見ると、左半分だけ背中から出ているシャツから、村井君のくたびれた気持ちを汲みとることができました。
(コウョウジュリン……? コウヨウジュリン!)
僕は、はっと思い、おもむろにランドセルをおろすと、社会科の教科書を開けました。やっぱりでした。先生の出した宿題の答えは「広葉樹林」大正解です。わかっていても、答えることのできなかった村井君は、あの先生のもとで、「相手の気持ちを考えて行動する」ことができるようになるのでしょうか。とりあえず、村井君と帰る時間を少しずらすため、もう一度席に座ってあくびがでるのを待っている僕は、ずるいやつだと思いました。
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