(17話) 落ち込むと思った


 結樹菜に現実は受け止められない。そんなふうに考えたのだが――結樹菜は自らの頬を力強く叩いたのだった。



「ごめんなさい。ちょっと不安になりました。でも、大丈夫です」



 その瞳は間違いなく前を見据えていた。正直、驚いた。 



「言っちゃ悪いけど落ち込むと思ったわ」

「そのうち落ち込むかもしれません。でも、月那さんが教えてくれました」



 結樹菜の言葉に内心で首を傾げる。檜山が興味深そうに月那たちを見た。



「時間を無駄にするのと、対策を練って調査を続けるのはどっちが利口か考えなさいって」



 確かに言った。コーヒーショップで、時間を捨てるのは元も子もないという意図で。



「だから時間を無駄にしちゃ駄目かなって。びっくりはしてます。でも、今も家族が危ない目に遭ってるかもしれないって考えたら、今落ち込んでる場合じゃないです。それに、自分が納得できるまでは自分は瑞穂結樹菜だって信じてもいいと思うんです」


「……そう、ね」



 月那は素直に感心した。同時に敬意を抱く。結樹菜は臆病であり精神的に頑丈がんじょうではない。しかし、それをくつがえすほどひたむきだ。実際は無理をしている。言葉が早口になっており指先が小刻みに震えている。そんな結樹菜を見ていると胸が熱くなる。力になりたい、守りたいという想いが胸の奥から溢れてくる。



「明日はあたしたちにできることをしよう。具体的なことは統局で考えるから」


「はいッ……!」



 良い返事だった。から元気げんきにも見えるが、それを指摘して水を差すような真似はしたくない。



(あなたを見てると不思議な気分になる。今までは屑を殺せればそれでよかった。助けられる人は助けてきたけど、屑をぶち殺したいって気持ちのほうが強かった。なのに、あなたといるとそういう気持ちが薄れるとまでは言わないけど、後回しでもいいかなって思う)



 橘月那は憎悪と怒りに忠実な人間である。ヘドロを高温で煮詰めたようなどす黒い感情を抱えていて、一瞬で理性のたがが外れるような気性の荒い激情家だったはずなのだ。


 風切りに母親を殺害された直後に保護された際に、局員の掌に噛みついて子供ながらに局員二名を病院送りにしたことは今でも西日本支部の語り草になっている。


 しかし、そうやって安易に我を忘れるようでは風切りを始末するどころか局員すら務まらない。そこで、月那は自制心を鍛え上げた。それでも、胸に巣食う憎悪が薄れたことはない。


 月那の胸中には今も爆発間近の負の感情が渦巻いている。それが本性なのだ。にもかかわらず、結樹菜を見ているとそれを差し置いてでも尽くしたいという想いが生まれてくる。



(骨抜きにされるってこんな感じなのかしら)



 初めての感覚に戸惑っていると、檜山の視線を感じた。



「なに?」

「いや、君を指名した僕ってさすがだなって思って。瑞穂君にとっても橘君にとっても良い方に転がりそうで良かった。やっぱり僕って見る目があるね」



 檜山が真顔で言った。『良い方』が意味することはわからなかったが、



「うるさい。黙れ」



 不満を隠さずに言い放つ。確かに結樹菜との相性は悪くないがそれは結樹菜のひたむきさがあってこそ。檜山がそれを見抜いて人選したのなら確かに見る目はあるのだろうが、結樹菜の人柄を自らの手柄のように言われるのはしゃくだった。



「結樹菜、戻るよ。このおっさんには気をつけな。こいつは小さな女の子を傷つけるのが大好きな変態よ。あたしも初めて会った時に殴られて肋骨を折られたの。さっきみたいに嫌味を言ってくるのもあたしを泣かせたいからなの。二人きりになったら大声出して逃げなさい」

「…………えっ?」



 結樹菜の顔が引き攣った。有体に言えば、ドン引きだった。



「ちょっ……橘君、本当にそれ止めて。殴ったのは本当だけど君が局員に噛みついて病院送りにしたせいでしょ? 引き剥がせなくて力ずくで黙らせたら本気で引かれたんだよ? 当時の局長に呼び出されて『よくやった。だが、精神検査を受けろ』なんて言われたんだからね。しかも、僕が君を気に入ってるから『檜山はロリコンだ』みたいな噂が立ってるんだけど?」



 それはいい気味だ。檜山が困ったところで月那は構わない。



「本当のあんたが受け入れてもらえたらいいわね」


「誤解招く言い方止めてッ…………瑞穂君、全部冗談だからね? 間に受けないでね?」



 結樹菜が困ったように月那と檜山を見比べた。



「見ちゃ駄目。変態が移るから」

「変態は移りません! というか、僕は変態じゃ……ちょっと? ねえ、どこに――」



 檜山を無視して局長室をあとにする。少しだけ胸がくような思いだったが間もなく後悔した。つい軽口を叩いたが結樹菜の気持ちを考えれば一ミリもふざけるべきではなかった。



「あ、あの………月那さん? えと、その……大丈夫ですか? 痛くなかったですか?」



 局長室を出た直後に不安げに尋ねてくる結樹菜。月那は驚愕した。



「……ッ。あなたって子は本当にいい子なのね。でも、こんな時にあたしの心配なんてしちゃ駄目よ。あたしはいいから家族と自分のことだけ考えなさい。でも、ありがとね」


「は、はい……」


「ところで大丈夫? しばらく一緒にいようか?」


「……え、あ……ありがとうございます。でも、あの、大丈夫です」



 結樹菜が青白い顔で答えた。他人の心配をするくせに、自分は大丈夫で押し通すつもりか。明らかに無理をしている。月那は少し迷った。


 今の結樹菜には一人で考える時間が必要かもしれない。もしくは寄り添うべきなのか?


 自分なら一人になる時間が欲しいし本人も大丈夫だと言っている。辛い時に寄り添った経験も寄り添われた経験もない月那は、最終的に本人の言葉を信用することにした。



「なにかあったら、あたしの部屋においで」

「はい……ありがとうございます」



 結樹菜が力なく笑う。そんな表情を見せられると、胸が締め付けられる。



(歯痒いわ。この子のためにあたしができることって他にないのかな?)



 護衛だからではない。統局の都合に巻き込んだ罪悪感からでもない。『守りたい』、『助けたい』、『頼りになってあげたい』という強い気持ちが月那の中に形成されつつあった。しかし、今の自分にできるのは明日あすからの行動計画を考えることくらいだ。



「行こうか」

「……はい」 



 並んで歩きはじめる。この時、月那は忘れていた。自分が一人きりだった時、心の底では苦痛を分かち合ってくれる誰かを切望していたことを。人間とは言葉にしなくとも本心では不安や苦しみを共に背負ってくれる誰かを求める生物いきものなのだということを。


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