2 文学に傾倒する少年の体験
世界はまるでブレーカーの落ちた様な暗闇に包まれて居る。住宅街を埋め尽くす、林立した家々の明かりはもう
蒸し暑い夜である。街は暑気の中で眠る。
手元の腕時計は深夜一時半を示している。
恐らく、こんな夜更けに外をほっつき歩いている人間など、私くらいのものだろう。私は子供だ。
しかし私は、別に何か複雑な家庭の事情を抱えているわけではない。ごくありふれた、一般階級の幸福をそのまま具現化したような家庭に生まれ、育ってきた。
幼い頃から活字中毒の父の影響で私の周りには常に本があった。母によると、三歳の頃にはすでに一人で絵本を貪るように読み耽っていたらしい。はじめは児童小説ばかり用意されていた。しかしほどなくしてそれにも飽き、次第に他の小説、いわゆる「純文学」と呼ばれる作品たちにも触れるようになった。この時で六歳だったという。
当時の私のお気に入りは太宰だった。私は小説を通して彼と会話をした。太宰は作品によって私にさまざな表情を見せてくれた。ある作品の中では彼は執拗な自殺志願者であり、またある作品の中では彼はふつうの滑稽な男だった。私にはそれが楽しくて
そのうち私は小説も書くようになった。プロットもろくに書かず、起承転結もめちゃくちゃの酷いものだったが、私は日がな机に向かってペンを走らせていた。学校の勉強なんて宿題さえすれば置いていかれることはない。私の小説に対する情熱は日増しに高まっていた。
そんなある日のことである。確かあれは二年ぐらい前の夏休みだったと記憶している(前に言ったかもしれないが、私はまだ小学生である)。私はその日唐突に、父の書斎を覗きたくなったのだ。
それは本当に突然の思い付きだった。今思い返してみると、どうしてもっと早くにそれを考えなかったのか不思議だが、とにかく私はその日、父の書斎に入ろうと試みたのだ。
父の書斎は二階の一番奥にある。
それまで父の書斎は私にとって完全に謎の存在だった。父も私をそこに招くことはなかったし、私も強いて入ろうとは思っていなかった。(きっと書斎には莫大な数の本があるに違いない)そう思って、私は珍しく鼻息を荒くしながら階段を上っていった。
その日は珍しく父も母も、そして私の五つ下の弟も出掛けていて、家の中には私しかいなかった。けれど何となく後ろめたいような気持がしたので、私は音を立てないように、そっと重厚な木の扉を開いた。
観音開きの右側だけを最小限開けて、その隙間に滑り込むようにして部屋の中に入った。気分はまるで泥棒だった。
書斎の中はもちろん暗かった。部屋には世界から生物が全て消えてしまったかのような静寂が広がっていたが、中は母親の胎内のように心地よく温かかった。私は壁伝いに明かりを探って、それらしきスイッチを押した。するとーーーーーーゆっくりと、部屋の中を暖かな色の光が満たした。
私は目を奪われた。私の想像した通り、父の書斎には、それはそれは
私は少なからず興奮していた。父の読書における趣好にも興味があったし、何より私自身の本好きの血が騒いだのだ。
父の本棚は、多くが外国の作家の本で構成されていた。私の好きな太宰もいた。あとは、本棚ひとつが丸々、江戸川乱歩の小説で埋まっているところもあった。私は彼の作品といえば数えるほどしか読んだことがない。しかし乱歩は父のお気に入りらしい。
その後もしばらく本棚を物色して、結局手頃な小説を数冊抜き取り、密かに借りていくことにした。読み終わったらまたこっそり返しに来ればいい。満足した私は、帰り際に父の机の上を
ーーーん?
私は思わず立ち止まった。
そこには原稿用紙の束があった。そして何やら文章が書かれているらしかった。私はもっと近寄って、その文章を読んでみた。それは明らかに「小説」だった。さらに極めつけに、机の端に積み上げられている本の作者名の多くが、父の名前であることに気付いた。
父は、小説家だったのだ。
このことは未だに家族の誰にも言っていない。だが後々調べてみると、父は正確には「元」小説家だということがわかった。少なくとも直近五年以上は新作を出版していないからだ。
この事実は私を少なからず驚かせたが、私は父自身が言い出すまで、この事実を秘密にしておく事にした。それまでは父の書いた小説を読む気もない。何らかの理由で父が、私たち子供に自分の本を読まれたくないのではないかと思ったからだ。
そんなことがあってからも、私は以前と変わりなく活字に入り浸る日々を送り、数年の時が経った。そして今に至るというわけである。
私の幼年期の思い出はここまでにして、ここから
こう言うと私がまるで落ち着き払っているかのように見えるかもしれないが、実際のところ、私は最初から全く冷静ではない。頭の中ではずっと焦燥が渦巻いていて、今にも飛び出してきそうな位なのだ。
つい4時間も前のことになる。私と弟はいつも通りに入浴を済ませて、寝室に向かおうとしていた。私もまだ小学生だし、弟なんてついこの間ランドセルを買ってもらったような年齢なので、床に就く時間は厳しく親に言われていた。普段なら浴室からまっすぐ部屋に帰る弟だが、今日は違った。
「月が見たい」と、急に言い出したのである。「外に出て見に行こう」
私は勿論、月なんて見なくてよかった。「どうして?」と私が訊くと、「今日は満月だから」と弟は言った。そしてーーーどうしてそうしてしまったのかは未だに解らないがーーー私は弟の願いを承諾してしまったのだ。しかもあろうことか、私は弟を一人で行かせてしまったのである。後にも先にもこれが一番の後悔になった。
一分ぐらいで帰ってくるだろうと高をくくって、私は寝室に入って待っていたのだ。しかし三分待っても弟は来なかった。五分待っても弟は来なかった。私は、こうなればもう意地だと思って、もう十分待った。それでも弟は来なかったのだ。
そして弟は忽然と姿を消した。
母親にこのことを言う訳にはいかなかった。もし言ったら母はパニックを起こしてしまうと思ったからだ。それに、父親も仕事の出張で長く遠出していて、パニック状態の母を落ち着かせられる人もいなかった。
私は母が眠りについてから、こっそりと家を出た。確か二十三時ごろだったと思う。
街を歩き回って弟を探しても、見つけることは出来なかった。もう弟は何者かに
空を見上げると、ちょうど満月が雲から顔を出すところだった。私は思わず足を止めた。月は異常なほど黄色く光って見えた。弟はどうしてこれを見たがっていたのだろう。
その時、先の曲がり角から人の足音が聞こえてきた。弟だ。私は確信した。
足音はこちらへ近づいてくるようだった。どうやら弟は走っているらしい。向こうも私の存在に気づいたのだろうか。とにかく私は安心した。弟は誘拐されてはいなかったのだ。これで全て落ち着くべきところに帰着した。
私は立ち止まって、弟が曲がってくるのを待った。…
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
しかし曲がり角のコンクリート塀から現れたのは弟ではなかった。
それは見知らぬ男だった。大きな男だった。身には黒い服ーーーというよりも、闇そのものを
男は私に気づくと、ニタニタ笑みを浮かべながら私に向かって凄い速さで走って来た。私には思考する暇も与えられなかった。恐怖すらなかった。
ここで私の意識は途切れた。
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