極夜

半田虻

1 ある若い男の供述


 え?あの夜に何があったか知りたいって?ーーーそんなこと言われてもなあ。気味がわるいから、僕もできれば思い出したくないんだよ。ーーーまあ、そんなに言うなら話さないでもないけど。そのかわり、頼んだからにはちゃんと最後まで聞いてくれよ。



  あの夜、僕はあまりの暑さでなかなか眠りにつけなくて、何となしにずっと起きていたんだ。ほら、君らにもそういう経験あるだろう?暑いのは何でもいやだけれど、中でも夜の暑さが一番やっかいだと僕は思うね。その日の天気予報では熱帯夜の予測がされていたみたいなんだけれど、知ったからといって暑さが和らぐわけじゃない。この土地に妻と越してきてまだ日も浅かったから、クーラーなんてものを取り付けるのは二の次だったんだ。涼を感じるための道具と言ったら、花火大会で貰った薄っぺらい宣伝用の団扇うちわと、実家から引っ張り出してきた鉄臭い微風を吐く扇風機ぐらいしかなかった。


「おかしい夜だわ。あまりにも暑すぎない?」セミダブルのベッドから起き上がって妻が言った。

「今は夏も盛りだから仕方ないさ。冷房を買うまで生き延びるしかない」いさめるように僕も返した。


  とは言っても、確かに妻の言う通り常軌を逸した暑さだったんだよ、あの夜は。――――――じっと黙っていると頭がぼうっとしてきて、静寂と暑気に呑み込まれそうになった。いくつもの間接照明に囲まれて(これは妻の趣味だ)、闇の中に浮かび上がるようになったベッドの上で、僕と妻はだるような暑さにぐったりと辟易へきえきしていた。まるで昼間見る陽炎かげろうの中でゆらめくような感覚だった。


  しばらくの沈黙のあと、妻がだしぬけにベッドから立ち上がった。そして買ったばかりのマットレスをぎいぎいいわせながら言った。「このままじゃ死んでしまうわ。散歩にでも行かない?」


  汗をかいて濡れた寝間着を着がえてから外に出た。玄関の掛け時計はちょうど零時半を過ぎたところだったかな。


  外は存外涼しくて、風も頰を撫でるぐらいに吹いていた。まだ一度も使われていない新鮮な空気を体内にめぐらせると、さっきまで生温いミルクみたいに混濁していたにぶい思考がたちまち冴えわたるのを感じた。寝室にいた時には僕たちを苦しめていた夜の静寂しじまも、その時はむしろ心地良く感じられたよ。


  僕らの家は近郊の住宅街にあって、少し行くとスーパーやら本屋やら薬局やらが立ち並ぶ商店街がある。そこで生活必需品はひととおり揃えられるようになっている。僕らはその辺りまで歩くことに決めた。


  こぢんまりとした一軒家を出て、僕と妻は風を感じながらゆっくりと歩いた。「家に帰っても暑すぎてとても寝られたもんじゃないわ。今日は眠るのは諦めて、暁光を拝むまで待つしかなさそうね」



          @



  相変わらず外はじっとりと汗をかくような厭な暑さが続いていたんだけれど、風もあるし、家の中にいるよりは何倍もましだった。


 冷たい月光に浸された住宅地はまるで迷路みたいに入り組んでいた。その間を縫うように妻と歩きながら、僕は唐突に、一抹いちまつの不安に襲われた。


 そもそもこんな真夜中に散歩に行こうなんて提案が出た時点でおかしかったんだ、いくら暑かったとしてもね。普段の妻なら絶対にそんなことは言わないはずだった―――やはり僕らは、暑さとは別のなにかに誘われて、ここまで来たのに違いない。妻には言わなかったけれど、僕はいつしかそう考えるようになっていた。


 道端の塀の上にたたずんでいた黒猫がニャーオと鳴くと、月がさっきよりも輪をかけて明るく感ぜられた。


――――――月。「そうか」


 妻が不思議そうな顔で僕を覗きこんだ。午前一時の妻の顔はまるで別人のように気味が悪かった。


「ねえ、江戸川乱歩って知ってる?」僕は訊いた。

「ええと…ごめんなさい、小説家だってことしか知らないわ」

「彼がある興味深い言葉を残しているんだ。あの満月を見てふと思い出したんだけれど」

「それは何?」

「それはね」―――僕は勿体ぶって言った―――「『月光の妖術』」

「―何だかカルト臭の凄い言葉ね」

「月のまばゆい夜には、同じ景色が昼間とは全く違って見えるだろう?乱歩はそれを"月光が妖術を使う"のだと表現したんだ。月の光は人間の頭を狂わせ、奇妙な行動へと駆り立てる」

「へえ…気味の悪い言葉ね。でも少し分かる気がする。月をじっと見ていると時々、変な気分になるもの。月の輪郭が周りの闇に溶け出して、そのぼやけた部分に吸いこまれそうになる……みたいな感じかしら」

「まさにその時、月は君に魔術をかけているんだよ。そして今もそうだ。今の僕は昼間の僕ではなく、往々にして今の君は昼間の君ではない。夜っていうのは本当に恐ろしい時間なんだよ。今なら何が起きてもおかしくない」


 やがて、コンビニエンスストアの灯りが皓々こうこうと輝く道を通り過ぎると、くたびれた商店街のアーケードが見えてきた。くだらない話をして時間をつぶしていたら、いつのまにか時計は一時半をとうに過ぎていた。



          @



 夜のアーケードはとても不気味だったよ。立ち並ぶ店は軒並みシャッターが閉められていて、アーケード内のあちこちで輝く白熱灯の無機質な光が、より一層建物の廃れた感じを助長させていた。


「怖いわ。さっきあんな話するから」さすがの妻もこれには恐ろしく感じるらしい。アーケードの天井に止まったカラスがけたたましく鳴いた。


 アーケードは直線に長く続いていた。僕もすごく怖かった。闇に浮かび上がるアーケードの一本道は、まるでモーセの海割りみたいに見えたよ。但し、その道が通じる先はたぶん、此世このよではないどこかだ。

「ああ」妻がため息のように声を漏らした。「鳥肌が立ってる」

「この道を通ったら気が狂うよ、僕達」あながち冗談でもなかった。


 もはや暑さの感覚は完全に消え失せていた。ひんやりとしたアーケードのコンクリートをひたひたと歩いていくと、美容院の軒先で、店の人が消し忘れたのかトリコロールが無感動な回転のリズムを刻んでいた。不思議なことだけれどその時の僕には、それが親切な何者かによる警告のサインに見えていた。

「帰ろう」僕は急かすように、けれど落ち着きを口調で妻に言った。「そうね」妻もわりに冷静な声で返した。「きっともう家の中も涼しくなってるはずよね」


 そして僕達は、アーケードの半ばあたりでもとの道へ引き返そうとしたんだ。


 天井を見上げると、さっきまで聞こえていたカラスの声はいつの間にかぴたりと止んでいた。


 淡白な、薄汚れた光で満ちたアーケードに、不意に静寂が訪れた。


 僕と妻がお互いの存在を確かめるために顔を見合わせた、その時だった。


 あれはまさしく月光の魔術だった。月の光が、いやアーケードの白色光が生みだした、一時的な狂気の幻だった。少なくともんだ。ああ……。


 妻の顔がはっきりと歪んだ。「何か音が聞こえる」ざっざっざっ……何者かが走ってこちらに近づいてくる音だった。「人だ」「こんな時間に人?」

 その足音の正体を探るべく、僕はあたりを血眼で見回した。


 僕ははっ、と一瞬、息を呑んだ。


 妻は僕の瞳孔が異常に拡大したのを認めると、震えた声で訊いた。「なにか、何かいるの?」


 僕は思考が停止してしまって、妻の問いには答えられなかった。


 恐ろしい、なんて言葉で形容できるものじゃなかった、僕は今まで歩いてきた道をじっと見ていた、妻は恐る恐るその方向に目を向けたんだ。―――…


 男が全速力でこっちへ向かって走って来ていた。それはもう尋常じゃない速さで。


 あの時の恐怖たるや筆舌に尽くしがたいものがあった。だから申し訳ないけど全容は想像してもらうことしかできない。ただこれだけは確かなんだ。人っこひとりいない真夜中の商店街を、見ず知らずの男(その時は男であることさえ判別できなかったけれど)がこちらへ向かって駆けて来るんだ。考えただけでもふるえ上がるような話だと思わないかい?


 …―――どの位経っただろう。僕が我に返ると、妻はまだ鳩が豆鉄砲をくらったような顔で口をぱくぱくさせて、走って来る男に釘付けだった。男はさっきよりもずいぶん近く、僕たちの50m先あたりまで来ていた。


 僕は妻の肩をせわしなく数回、叩いた。さっきの僕のように、妻の虚ろな目の焦点が合うと、こんどはその目をうろうろと動揺させながら僕の方を見た。「ねぇ――」「いいから早く」


 僕らは咄嗟とっさに―――といってももう遅いけれど―――すぐ脇にあった商店の軒下の、自動販売機の陰へと隠れた。暗がりにしゃがみこんでから三秒と経たないうちに、男がまるで黒い風のごとく目の前を駆けぬけていった。僕は妻を片腕で抱き寄せるようにしながら、月明かりと白色光に照らし出された男の姿を見た。


 男は全身に黒の服をまとっていた(ように見えた)。男は息を荒くするような様子もなく、ただ淡々と走っている感じだったよ。しかも奇妙なことに、僕らの前を通り過ぎる瞬間、男はこちらをちらとも見ずに走り去っていったんだ。確実に僕ら二人には気がついていたはずなのに……。


 ただ後から妻に聞くと、妻は僕とまるで違うことを口にした。妻によれば、あの瞬間、男は僕らに視線を向けていたらしい。気味が悪いほど大きな目玉をぎょろりとこちらに向けて、まるで裂けているんじゃないかと思うぐらいに大きな口でニタニタ笑っていたというんだ。僕はまったくそうは見えなかったんだけれど、妻がそう言うなら何となくそんな気もしてくる。じっさい、あの出来事があってからしばらくの間、妻は時々うなされたようになって、男のおそろしい表情を思い出してはおびえていたんだ。このことからかんがみても、どうも僕のほうが見間違いをしてしまったらしいね。いずれにせよ、常軌を逸するほどに奇怪な一夜だったことに変わりはない。


 男が走り去ってからしばらくの間、僕らは商店の軒下にもたれかかったまま呆けていたのだけれど、ふいに頭上、アーケードの天井から聞こえるカラスの鳴く声で現実に引き戻された。僕は妻と顔を見合わせた。妻は悪い夢から醒めたような表情で、こっちを見つめていた。


 いつともなくアーケードの蛍光灯がぷつりと灯を落とした。僕らはまだ視界がぼんやりしていて、あたりが一段と暗くなっても気がつかなかった。そのうち、月も雲に隠れて、アーケードはにわかに深い闇を得た。



 僕らはほとんど無言のまま、夜闇の中帰路を急いだ。



          @



 今考えても、あの夜はおかしなことばかりだった。いくら蒸し暑くても、あんな夜更けに外に出るなんて常人の思い付くことじゃないよね。妻ともくだんの夜についてたまに話すんだけれど、お互いにどことなくぼんやりした感覚で、はっきりと思い出すことができないんだ。結局あの男のことは分からず終いになってしまった――――――いや、そもそもあの夜自体が存在しないものなのかも知れないね。すべてが満月の光によって生み出された、ひとときの幻影であったのかもしれない。

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