月が綺麗ですね

 夜。辺りが静寂に包まれる中、自室でテルミットがエレナの髪を手入れしていた。椅子に座るエレナに、後ろから櫛でとかす。ゆったりとした、穏やかな時間。


 窓の外には月が見えた。穏やかな気持ちだからだろうか。辺りを煌々と照らす満月が、今日はやけに美しく見えた。


「綺麗ですね」


「へっ!?」


「夜だからかもしれませんけど、いつもより輝いて見えますよ」


「そ、そうかな……」


 頬を染めて、もじもじと俯くエレナ。


「とても神秘的で、見ていて心が奪われますね」


「あ、ありがとう。それより、いったいどういう風の吹き回しだい?」


「どうって、見たままを言ったつもりですが」


「そ、そうかい……」


 普段のエレナらしからぬ歯切れの悪い言葉に違和感を覚えつつ、目だけは月から離せない。テルミットは完全に魅了されていた。


「こうやって、昔から見る者すべてを魅了して、心を奪ってきたんでしょうね」


「そ、そんなことないよ……。ボクはテル一途だから……」


「少なくとも、僕の心は奪われましたけど」


「へっ!?」


 エレナが素っ頓狂な声をあげた。

 今日のテルミットは、いつにも増して積極的だ。意図はわからないが、甘い言葉を囁かれるというのも、悪い気はしない。


 テルミットの手が、優しくエレナの髪を撫でた。


「月が綺麗ですね」


 エレナは自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。

「月が綺麗ですね」これは昔の作家が残した言葉で、直訳すれば「あなたを愛しています」という意味になる。

 テルミットにそこまでの含蓄があったとは知らなかったが、勉強を教えているだけに、テルミットの成長が感じられる。


 エレナが頭を後ろに倒す。ぽすん、とテルミットの身体に当たった。銀色の髪が風に揺れる。


「ボクも、同じ気持ちだよ」


 エレナの表情は伺えない。だが、髪の端から覗く形の良い耳が、真っ赤になっていた。






 髪をとかし終え、二人は月見をすることにした。

 屋外のベンチに二人で腰掛ける。エレナがテルミットの肩に頭を乗せた。


「…………」


 エレナが切なげにため息をこぼした。先程の余韻が残っているのか、妙に火照ってしまう。


 ほんのりと赤くなるエレナ。テルミットがエレナの顔を覗き込んだ。


「顔が赤いですけど、大丈夫ですか? 熱とかないですか?」


 テルミットのおかげでこうなってしまったというのに、間の抜けた顔で尋ねてくる。まったく、人の気も知らないで。


「……テルのせいだよ」


 頬を染めながらぽつりと答えるエレナ。怒っているわけではなさそうだが、その声色には抗議の色が感じられた。彼女の機嫌を取るべく、そっと肩を抱き寄せた。


 テルミットが煌々と輝きを放つ月を見上げた。


「……やっぱり、いつ見ても綺麗ですね」


「そ、そうかな……?」


 もじもじと身体をくねらせると、さらにテルミットに密着した。エレナの甘い香りが辺りに漂う。


「いくら見ても飽きませんよ」


「そ、それなら、テルの気が済むまで、眺めててもいいから……。ちょっと恥ずかしいけど……」


 テルミットが空に手を伸ばした。


「この美しさを独り占めしたい、なんてちょっとワガママですかね?」


「そんなことないよ。ボクはテルのものだから……」


 どこか火照った目がテルミットを見上げた。

 二人の会話が微妙に噛み合わない。


「出来ることなら、ずっと見ていたいです」


「う、うん……。で、でも、あんまり見られると、ちょっと恥ずかしいかもしれない……」


 湯気を吹きそうなほど茹で上がったエレナが、テルミットの胸に頬を寄せた。


 完全に、エレナの眼中は月にはなかった。甘い言葉を吐くテルミットに身を寄せ、うっとりとテルミットの体温を、柔らかさを、鼓動を感じていた。


 どくん。どくん。ゆったりとした鼓動が心地良い。


 テルミットがエレナの髪を撫でた。


「エレナさんも綺麗だって思いますよね?」


 テルミットの問いに、エレナが固まった。


(それをボクに聞くのかい?)


 自分の容姿にはそれなりに自信がある。ゆえに、テルミットに色仕掛けをすることもあるし、テルミットが自分を求めてくれているのだと思う。


 ただ、それを自分の口で、言葉で話すのはまた別だ。自分で自分のことを綺麗だ、などと、なかなか言えることではない。誰だって、いらぬ恥はかきたくない。


 ただ、それを他ならぬテルミットが尋ねるのであれば、正直に答えたい。テルミットに嘘はつきたくない。


「まあ、その……。うん、容姿には自信があるよ」


 もじもじと恥ずかしげに答えるエレナ。


 テルミットが首を傾げた。なぜここでエレナの容姿の話が出てくるのだろう。


 刹那の思考。そこで、ある一つの可能性に思い当たった。テルミットが月ばかり褒めるので、エレナが嫉妬したのではないだろうか。


 その仮説にたどり着けてしまうと、それが答えだとしか思えてならない。


 テルミットの胸中に愛しさに似た、生暖かい感情がこみ上げて来きた。


 月と自分を比べて嫉妬するなんて。普段の知的な雰囲気とは違い、見た目相応の乙女のようで微笑ましい。


 滲み出る微笑ましさを隠さず、テルミットが笑みを浮かべた。


「まあ、一番綺麗なのはエレナさんなんですけどね!」


「えっ、さっきまでの話は、ボクを褒めていたわけじゃなかったのかい?」


「えっ!? 何のことですか?」


 その後、真相を知ってしまったエレナは、しばらくテルミットと口をきかなかったという。

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