第2話

 一


 夜にも休まぬ街の喧騒からやや離れ、一層寂しさ際立つ住宅街付近にツルギの住まいはあった。

 住宅街の本当に手前である。そこにあるぼろの木造アパートメントがそうだ。彼はもう少しでそこに辿り着くというところで異変に気付いた。

 見られている。視線を感じるのである。しかも一つや二つではない。沢山の気配と視線がツルギの身体を四方八方から射貫いていた。

「ンだよ、気味悪ィな」

 ツルギの小心者がざわつき肩が竦む。視線を辿ると他の家屋が映るが住民は寝ているのか明かりは点いていない。右左、正面。そして背後を振り返る。やはり誰も居ないし、周囲の建物は静まり返っている。異様なほどに。

 何もありはしない。しかし早く帰った方が身の為だと本能的に悟ったツルギが再び前を向き、急ぎ足を動かそうとした時であった。一陣の風が彼の背中を追い越し、頬を撫でてごわついた金髪を揺らした。

 なんだ――ただの風がどうしてか気になったツルギが今一度背後に振り返ろうかと思ったとき、熱いものが頬に触れたような気がした。

 右頬に触れて、ぬるりとした感触を得た彼が指先を眼前に持って行くと、そして見たのは赤く染まった指先であった。それが血だと理解した途端、ツルギは右頬に痛みを感じ始める。裂けて血が流れていた。

「なん――」

 驚き撥ねるように振り返った時である。今度はより強い突風がツルギを正面から見舞った。かまいたち――そんな現象が彼の脳裏に過り、慌てて両腕で己が身を庇おうとするツルギ。そのまま彼は倒れるほどではないはずのその風に負けてその場に尻餅を付いた。

 臀部から伝わる痛みに硬直が解け、頬のことをも思い出すと彼は自分の身体を弄り何処にも怪我が無いことを確かめる。――怪我は無かった。

 しかし安堵する暇も無い。すると今度はコツンと背後に足音をツルギは聞く。ぎくりとして彼の肩が撥ねた。どくどく跳ね回る心臓から送り出された血液に全身が熱くなり、しかしツルギの背筋は氷でも押し当てられたかのように冷える。

 振り返りたくない小心者のツルギ。だが何かの引力がそんな彼の身体を地べたに這わせたままで振り向かせようとしていた。

 首を捻り、腰を回して尻餅をついたツルギは遂に振り返る。彼の耳には歩み寄ってくる靴音とそしてもう一つ、ずるりずるりと何かを引き摺るような重々しい音も新たに届いていた。

 そして見る。そこに居たのはドクロの――

「あ……お、お前っ!」

 それはドクロの描かれたフードを目深に被った、少し前に出逢ったあの少女であった。ツルギは思わず頓狂な声を挙げて名も知らぬ少女を呼ぶ。

 あの時は顔以外よく見ていなかったが、少女の着る黒いドクロのパーカーは袖や身頃にも骨の意匠があしらわれたジョークグッズのようなものであった。身頃の裾から覗いているのは紺色のスカート。下は制服だろうか。そうやって少女の姿を推理しツルギは安堵からその思考を恐怖以外の方向へと必死に移行、自己を保とうとする。それを見るまでは。

「……おい、それ、なんだよ」

 少女は応えない。ただ目深に被ったドクロの黒い眼孔が彼女の紅い眼に代わりツルギを見詰め続けるばかり。

 そしてツルギの眼は少女の右手に移る。赤い鎖の付いた何か巨大な、乳白色をした鉤爪の様な鎌と呼べるかも知れない物体。

 少女はそれの太く短い柄を逆手に握り、猫の爪のように湾曲した刃、その切っ先には同じ乳白色をした人にも見える形をした異形が射止められ引き摺られていた。

 震える両脚で、両手も使ってツルギが立ち上がる。そして無言の少女を見下ろし、それから異形も。

 人の様に見える原因は頭があり手足があるからだろうか。だが衣服を纏わぬその身体は全身乳白色をしており、皮膚は節くれ立っていて人肌のような温かみや柔らかさとはかけ離れていた。四肢も異様に長い。顔は無数の乱杭歯が乱立した口腔以外のっぺらぼうだ。

 海外の映画にでも出てくるような悪趣味でグロテスクなその怪物に顔面蒼白するツルギであったが、何故か目を離すことが出来なかった。

 だが彼には少女の方にも似たような関心があって、ちらとそちらを窺った彼の前で少女は何も持たぬ左手をゆらり持ち上げツルギを指差した。

 その仕草にきょとんとしてしまうツルギであったが、彼は気付いていないだけなのだ、背後の闇にぼんやりと浮かび上がる白い影に。その影が音も無く、歯ばかりで真っ赤に濡れた口を大きく開いている事に。

 すると少女が差し伸べた左手、左腕が何やら波打ち、袖の中で何かが蠢いた。その直後である、少女が広げた手のひらを突き破り鮮血と共にそこからもう一振りの鎌が躍り出てきたのは。

 飛び散った生暖かな鮮血を浴びながら、しかしツルギには眼前で起きていることへの理解がまるで追い付かず、彼は眼を丸く剥いたまま固まるばかり。

 やがて体内より出現した鎌を掴み止めた少女がそれをツルギへと向けて振るった。ツルギは先の事態の理解をすっ飛ばし、ひゃあと悲鳴を挙げながら両手を持ち上げひとまず頭を抱え庇う仕草に移る。

 ぶすりと針がものに穴を開ける時の様な音が呆気なくも響き、それを拾ったツルギの全身を熱いものが駆け巡った――だが痛みは無い。固く閉ざしていた両目の内、片方を開けて様子を窺うとツルギの視界に鎌の柄の部分が映った。

 弾ける様に振り返り、すると着地もままならずまた尻餅をつくとそのままツルギは背中から地面を転がり少女の足元へと転倒する。

 一瞬閉ざした両目を開いたツルギには少女の脚の付け根が映る。スカートと、そして本来下着にも秘匿されていなくてはならない箇所が、その時暗がりだというのにツルギにはハッキリと見えてしまった。

「はっ!? パンツは……? って、おいアレ!」

 だがすぐに己が飛び退いた理由を思い出し、スカートの中を見上げる両目が放つ視線を先程、自分の居た場所へとツルギが向ける。

 そしてそこに居たのはやはり乳白色の怪物。それの首には少女が振るった鎌の切っ先が突き刺さっており、異形の身体は痙攣を起こし震えていた。

 地面を這いずり、少女の影に身を隠すツルギ。彼は少女の素足に縋り付きながら、それを見詰める。やがて怪物の首から切っ先が引き抜かれると、栓が外されたのか真っ赤な鮮血がそれの首から噴き出した。

 怪物が赤い泡を吹きながら開いた口腔から雄叫びを挙げようとする。しかし少女はすかさず引き抜いた鎌をもう一振りし、一閃。ごろりとのっぺらぼうの頭が首から離れ地面に転がった。遅れて身体も倒れる。

「……それでアンタ、なに?」

 それはこっちのセリフ――思わず突っ込んでしまうツルギであったが、遅れながら不思議にえっと声を零した彼が縋った脚を辿る様に見上げると少女の紅い眼が見下ろしていた。声も少女のものであった。

 思わず引きつった笑みを浮かべたツルギが「ツルギって言います」そう返事をしてしまうとふーんと鼻を鳴らした少女は虚空を見る。つられてツルギも、何も無い暗闇を見た。

「……ありがと」

 はっ――またも唐突な、少女からの感謝の言葉にツルギが跳ねる様な調子の声を放つ。虚空から少女へと視線を戻したツルギが見たのはフードの中、ほんのり白い頬を紅葉させた彼女のしかめっ面であった。そして――

「……おにぎり、おいしかった」

 少女から告げられた言葉にツルギは自分の頭がおかしくなったのだろうかと思い、かぶりを振ってから軽く叩き、両目を頻りに瞬きさせる。そして改めて少女を見上げるが、あるのは変わらない彼女のしかめっ面だった。

 血の臭いが満ちる凄惨な場に視界を移しながら、茫然自失に陥る手前のツルギは少女に対し一言。

「どう、いたしまして……」

 何なのだこれは――真っ白になって行く頭の中、寸前に考えた言葉。それは終いには口から出ることはなかったが、ツルギの意識を引き戻したのは何か、カエルの断末魔の様な歪な音色であった。

 それは少女の方から聴こえた気がして、またツルギがそちらを見ると少女はますます赤くなった顔を彼から背けつつ、怪物に突き立てたままの鎌を放った右手で以て意味有りげに己の腹部を擦る。

 それを見たツルギは言うのだった。

「……家、来る?」

 ――と。

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