中編
家に帰ってから、僕はすぐに夕ご飯を食べた。今晩はお母さんがお昼からずっと煮込み続けていた自家製のカレーだ。
ジャガイモとニンジンと牛肉がゴロゴロと入った中辛のそれを、真っ白なご飯とともに口の中にかき込む。お母さんの得意料理であるそれはすごく美味しくて、二回ぐらいお代わりした。
はお腹が満たされたら、僕はもう風呂に入って寝るだけだ。今日は好きなライバーさんの配信はないので、夜更かしはしない。
久々に食べた大好物に機嫌を良くしながら、僕は脱衣所に入った。扉の鍵をかけて、少し汗が染み込んだ制服を脱いだ。
そして、それを洗濯機の中に放り込もうとしたところで、はたと気づいた。
——ズボンの後ろのポケットに入れていたはずの財布がない。
「えっ………な、なんで……?」
別のところに入れたっけと、他のポケットを探るも見当たらない。慌てて体にバスタオルを巻いてリビングに駆け込み、置いてあるバッグの中をまさぐっても、財布は出てこなかった。
……もしかして、あの時駅に落としてきちゃったのかな。そんな考えが頭を過ぎる。一度生まれたそれはどんどんと僕の頭の中で膨れ上がり、全身から嫌な汗が吹き出し始めた。
とりあえず、一度お風呂に入ろう。それから、駅に戻って確認してこよう。鈍くなった頭でそれだけを考え、僕は脱衣所に戻る。
それからは自分でもびっくりするぐらい行動が早かった。五分もしないで体を洗い、溜まっていたお湯に浸かった時間も十分もなかった。
風呂場から出て体を拭き、適当な服に着替えるのもあっという間だった。多分二分ぐらいで終わったんじゃないかと思う。
そんなふうに、もう二度としなさそうなレベルの早風呂を済ませた僕は、キッチンで洗い物をしていたお母さんに「駅に財布落ちてないか見てくる」と叫ぶように告げて、靴のかかとを潰して玄関から飛び出した。
*
家からノンストップで走り続けて息が切れてきた頃、僕は駅についた。
お風呂で中途半端に温まった後だからか、長袖のシャツと少し厚手のズボンだというのに少し肌寒かった。
暗闇の中で白い蛍光灯にぼんやりと照らし出される駅の入り口は、まだ開いている。僕は財布が見つかりますようにと祈りながら、I Cカードをタッチして改札を抜けた。
財布はすぐに見つかった。駅のホーム、それも改札の近くにポツンと落ちていたのだ。
思わずガッツポーズをして、財布を拾い上げ中身を確認する。野口英世が一枚、二枚、三枚、四枚……樋口一葉が一枚、二枚……よし、全部あった。
ポイントカードもちゃんと全部入っている。小銭は細かくて覚えていないから適当に見て盗まれてないと判断した。
よかった。僕が必死に貯めてきたお金がこんなことでなくなったら、悔やんでも悔やみ切れない。盗まれていなくて本当に良かった。僕は思わず安堵のため息を吐いた。
心配事が無くなったら、急に力が抜けてきた。まだ息も上がったままなので、僕は駅で少し休んでから家に帰ることにした。
改札横にある錆びたベンチに腰を下ろして、乱れた息を整える。そうして何度も財布がての中にあるのを確かめながら、僕は空を見上げた。
——そこには、ネオンイエローの満月があった。
あれ、おかしいな、と僕は目を凝らす。今日は新月のはずだ。なのになんで月が出ているんだろう。それに、色もちょっと変だ。あんなに鮮やかな色の月なんて見たことも聞いたこともない。
僕が変な月のようなものをじっと見つめていると——グルン、とそれが動いた。
目玉だ。大きな黄色い目玉が僕を見ている。蛍光色の中で縦長の黒い瞳孔が目立っていた。
僕は情けない悲鳴をあげて、頭を抱えて目を瞑った。そして、また流れ始めた冷たい汗の感触を全身で受け止めながらガタガタと震える。
大丈夫、これはただ寝ぼけて見間違えただけさ。なんとか自分に言い聞かせて、少しずつだけど体の震えが収まってきた。そして、それに続いて汗もひいていく。
さっさと家に帰って布団に潜り込もう。そう思って閉じていた目を開いた、その時だった。
『…………タスケテ……』
幼い女の子のような可愛らしい声が、僕以外に誰もいないはずの駅のホームに響いた。反射的に顔を上げると、少し離れたところにある蛍光灯の下に女の子が立っていた。
黒く滑らかな髪を肩口で切りそろえたその子は、白い薄手のワンピースに花柄の運動靴という出で立ちで、大きな黒い瞳とぷっくりとした桃色の唇、新設のように白い頬と、とてもかわいらしかった。
でも、僕はその子を見た時、可愛いとか可愛くないとか、そういうことよりも先に違和感を覚えた。
——こんな子、この町にいたっけ。
B町に住んでいる人は基本みんな顔見知りだ。特に小さい子なんかはお歳寄りの人たちが大好きで、頻繁に話に上がるからみんな知っている。僕のお母さんもよく写真を見せてくるので、顔もなんとなく覚えていた。
でも、僕の記憶にある限りこんな子はB町にいない。その子の顔には見覚えがあるような気がしたけど、まったく思い出せなかった。
「……だ、誰?」
問いかけてみる。女の子は僕の声に反応したのかぴくりと動いたが、答えが返ってくることはなかった。
『…………タスケテ……オネガイ』
また、女の子が呟く。呟きながらその子は、駅のホームの端に歩いて行き、線路を覗き込んで指差した。
……何か落としちゃったのかな。僕は少し怖かったけど、放っておくのはなんだか嫌だったから彼女が覗き込んでいる方へ向かった。
彼女が指差した先には、見慣れないキャラクターのストラップが落ちていた。ちょうどレールの真ん中、枕木の上に横たわっている。
僕が「あれを拾ってきて欲しいの?」と聞くと、女の子は勢いよくうなずいた。そして、手をとって上目遣いにお願いしてくる。
僕は引くに引けなくなって、結局その子のお願いを聞き入れることにしてしまった。
「……ここって監視カメラとかあったっけ」
他に人の目がないか、周囲を確認する。当然だけど今この駅には僕とこの女の子しかいないし、見たところカメラもない。
スマホを出して電車の時刻表を確認すると、今日はもう電車は来ないようだった。
これならいける。ちょっと高さがあって怖いけど、なんとかなるさと、身を奮い立たせた。
そして、ホームの端に手をかけてぶら下がり、いざ、飛び降りようと決心して足元に視線を向けた。
そこには大きな穴があった。
「ひっ!?」
レールがぐにゃりと歪んで、地面に大きな空洞ができている。枕木が交互に分かれて、まるで牙みたいになっていた。
敷き詰められた石が隙間から溢れ、大量に空洞に吸い込まれていく。ガラガラ、ガラガラ、と大きな音を響かせながら、滝のように雪崩れていく。
——不意に、まるで誰かの口みたいに勢いよく閉じた。そして、バギャ、ボリ、ボキ、という音を立てて石を咀嚼する。
しばらく咀嚼した後、空洞は一度強く閉じられた。そして、再びゆっくりと開く。
その奥は、あまりに不気味だった。どこまでも鋭くて赤黒い跡ときばみが付着した牙が無数に並び、中央には血走った目玉が一つ。さっき僕が見た、蛍光色で瞳孔が縦長の目だ。
ギョロリとしたグロテスクなそれは、確実に僕を捉えている。まるで獲物を見つけて歓喜しているような、不気味な視線だった。
僕はあまりの恐怖に叫びそうになった。全身の震えはさっきよりよっぽどひどくなっているし、冷や汗もまた出てきた。もうさっさと逃げ出してしまいたい。
でも、それは叶わなかった。
『ネエ、トッテキテヨ。ハヤク、ハヤク』
上を向くと、僕の手の近くに立って女の子がこちらを覗き込んでいるのが見えた。さっきからしきりにストラップの救出をせがんでくる。
その顔は先ほど見た可愛らしいものとうってかわって、どこまでも不気味なものになっていた。
大きな目は落ち窪んで、真っ黒な穴があるだけ。口も耳元あたりまで避けて、薄く開かれた唇からは血塗れの牙がのぞいていた。服もボロボロの砂塗れ血塗れで、あちこちに切り傷や擦り傷がある。
……いや、あれは傷じゃない。今確かに僕は見た。腕にある切り傷の一つがパックリと開いて、そこから真っ赤な瞳が僕を睨みつけてくるのを。
「……あ、あ」
変な声が漏れる。もう嫌だ。なんで僕がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
女の子は大きく避けた口を歪ませながら、早く取ってきてよと言い続けている。そして、僕の手を踏みつけるふりをしてケタケタと薄気味悪い哄笑をあげた。
僕の下では相変わらず巨大な口が大きく開いて、僕が落ちるのを今か今かと待っている。
何もできない僕は、ただ目を瞑って怯えることしかできなかった。
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