後編

『…………ネェ、ナンデトリニイッテクレナイノ?』

「…………っ」


 女の子が話しかけてくるけど、僕は恐怖で声が出ない。せいぜい情けない呻き声を上げられるぐらいだ。

 呪詛のように吐き出され続ける言葉を、震えながら聞き続ける。だんだん手も痺れてきて、少しでも気を抜いたら落ちてしまいそうだった。

 

『……フウン、ソウヤッテムシスルンダ』


 女の子の声が怒気を孕む。そして次の瞬間、僕の左手の指先を思い切り蹴ってきた。


「いだっ!?」

『ネエ、サッサトシテヨ』


 二度、三度、四度。女の子は僕の手を蹴り続ける。指先がじんじんと痛んで、なんだか熱い。液体がまとわりつくような感覚もしてきた。

 ……ダメだ、力が入らない。そう悟ったと同時に、僕の左手がホームの端から滑り落ちる。僕の命綱は痛くなってきた右手だけ。絶体絶命だ。


 僕が落ちかけているのを見て気分がいいのか、女の子はあの薄気味悪い笑い声を響かせる。そして、今度は僕の右手を踏みつけてきた。


「あがっ!!」

『オニーサンガスグトリニイッテクレナイノガワルインダヨ?』


 グリグリと右手の指を踏みにじられ、再び激痛が走る。

 熱い。まるで熱湯に突っ込んでいるみたいな感覚が、指先から手首辺りまで襲ってくる。だんだんと腕も痺れてきて、もう一度蹴られたら絶対に耐えられなさそうだ。


 ……嫌だ。死にたくない。なんでこんなことにならなきゃいけないんだ。僕は必死に右手を握る。指の皮がむけて、アスファルトで肉が抉れているのをぼんやりと感じるけど、そんなのは気にしていられない。

 ふっと、意識が遠のくような感覚があった。両手から結構な量の血が出ているみたいだから、もしかしたら貧血になっているのかもしれない。


 でも、ここで気絶してしまったら一巻の終わりだ。もし落ちてしまえば、きっと僕はすぐにあの牙にぐちゃぐちゃに噛み砕かれてしまう。


 もしそうなったとしたら、と変な想像をして、猛烈な不快感に襲われた。ただでさえ少なくなっている血の気が一気に引いて、胃の中のものが食道を遡ってくるのがありありと感じられた。

 喉の奥まで迫り上がってきた胃液を、すんでのところで飲み込む。酸っぱい味と、やかれるような痛みが口の中に残った。

 僕はその想像を振り払って、残った微かな意識を全て右手に集中させた。

 だけど、現実はどうしようもなかった。


『……イツマデツカマッテルノ。オチテ、ハヤク』


 怒りを隠そうともしない甲高い声で喚き散らす女の子の声が聞こえたかと思ったら、右手の指の先を強く蹴られた。すでにボロボロになってしまっていた僕の右手がそれに耐えられるわけもなく、指の肉をいくらかアスファルトに持っていかれて宙に投げ出された。


 僕の体が、線路の大口に向かって吸い寄せられていく。強烈な浮遊感とともに、逃れられない死が迫る。

 落ちていく時間が、一分にも一時間にも1日にも長く感じられた。日常の断片的な記憶が、断続的に脳内に流れる。これが走馬灯っていうものか。消え去る寸前の意識の中で、やけに冷静にそんなことを考えた。


 僕はわずかに残った意識をゆっくりと手放して——




 突如、上に吊り上げられるような感覚が全身を襲った。

 思わず開いた目に、逆さまの世界が映る。その直後、僕の体は駅のホームに落ちた。


「かはっ!?」


 背中を強く打ち付けた衝撃で、消えかけていた意識が一瞬にして覚醒する。状況を理解できないまま、僕は鮮烈な痛みを背中で味わった。

 今僕に何が起きたんだろう。ぼんやりとした視界で空を見上げながら痛みで鈍る頭でそんなことを思った瞬間、僕の口に冷たい液体が流し込まれた。


「んぐっ!? ……んぐ、ぐ……っはあっ!」


 わけもわからないまま反射的にそれを飲み込んでしまった。怒涛の展開にますます混乱して、飲んじゃいけないものだったのではと不安を抱いていると、不意に全身を襲っていた耐えがたい痛みがなくなった。


「えっ…………?」


 慌てて身を起こし、自分の手を見る。

 ……傷が、ない。さっきまでひどいことになっていたはずの僕の両手は、傷一つない綺麗な状態に戻っていた。

 袖には赤黒い血がべっとりとついたままだから、あの痛みが僕の思い違いだったとか、そんなことはないはずだ。背中に手を回すと、そこも服が破けているものの傷は一つもなかった。


 僕は立ち上がって、さっきまで掴まっていたホームの端のところを見に行った。貧血のせいか少し足がふらついたけど、なんとか転ばずにすんだ。

 ——ホームの下は、まるでさっきまで僕が見ていたものが幻影だったみたいにしんとしていた。ホームの角には手指のシルエットをした血痕があるが、それ以外には何もない。線路がパックリと割れてできた大口も、今では影も形もなかった。

 さっきまで僕や女の子の声が響いていた駅は、完全に時が凍りついたみたいに静かだった。あまりに音がしないから、自分の息遣いですらちょっとうるさく感じる。


 ——ふと、冷たい風が僕の首筋をなぞった。


「ひゃっ!?」


 びっくりして、変な声が出る。僕はここにいるのがとても怖くなって、ベンチの近くに落ちていた財布を手に取って一目散に逃げ出した。

 背後でどさっという何か重いものが落ちた音がしたけど、そんなものを気にしている余裕はなかった。


     *


 息も絶え絶えに家に帰ると、玄関まで出迎えにきてくれたお母さんが僕の服を見て悲鳴をあげた。

 

「ちょ、ちょっと!? 大丈夫なの!?」


 大慌てで僕の両手をとり、顔を青ざめさせて質問攻めにしてくる。血塗れになってあちこち大きく破れているし、僕自身顔が引きつって体が震えているのをなんとなく感じているんだから、それを見てしまったら仕方のないことだと思う。


 僕はさっきの体験をどう説明するか、恐怖でうまく動かない脳みそで必死に悩んで、結局「段差につまづいて勢いよく転んだ」という当たり障りのない説明にした。背中にできた大きな穴は、どこかにひっかけたのかなとごまかした。


 ……線路が割れて大口開いて僕を食べようとしてきたなんて、お母さんに話したら頭がおかしくなったんじゃないかって余計心配させてしまう。だから、このことは言わないでおこうと思った。


 この日は早く部屋にこもって寝たかったのに、お母さんがしきりに心配して構ってくるから、ちょっとうざったいなと思った。

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