第5話 事件

 入寮してからは特に騒動に見舞われることもなく、至って平穏な毎日を送ることができていた。特に厨房のシェフたちを中心に使用人や職員の人たちと仲良くなれたのは幸運だった。

 まず、食材さえ自前で持ち込めば厨房を利用することを許可してもらえた。しかも常備されている調味料ならば使用しても構わないという素晴らしいオマケ付きである。


 他にも、シール学園や貴族学園の教科書を取り扱っている古本屋のことを教えてもらうことができた。

 うちほどではなくとも貧乏貴族の場合、旅費等の足しにするためと荷物を減らすために卒業後使用していた教科書の類を売り払うのが定番であるらしい。

 それらを取り扱っている古本屋を紹介してもらえたのだ。


 中等どころか初等の貴族学園にすら通っていない俺としては知識の宝庫にして宝の山だった。付け焼き刃であってもないよりは遥かにマシだ。

 平民出身の学生に売れることもあるが、大半は不良在庫と化していたこともあって、大量購入することで一冊当たりの単価を驚くほど安く仕入れることができたのだった。


「それは良かったね。……ところで、どうしてこんな場所で勉強をしているのかしら?」


 俺の正面の席に座ったシシルさんが、心底意味が分からないという顔で尋ねてくる。

 すると周囲の席に座っていた連中も同意するように頷くのだった。


「頻繁に顔を出せと言ったのはシシルさんの方でしょう」


 チラリとその様子を見てから、手にした本へと視線を戻して返事をする。

 彼女はテーブルに身を乗り出すような体勢となっているため、じっくり見てしまうと色々とヤバイことになるのである。主に俺の心身が。


 まあ、場違いであることは理解している。なにせ俺がいるのは冒険者協会に併設されている食堂兼酒場なのだから。

 とはいえ、今は昼前の時間帯で半分以上の席が空いている。隅のテーブルを一つ占領していたところで、別段邪魔にも迷惑にもなっていないはずだ。


「確かにそうは言ったけど……。何もうちで勉強しなくてもいいんじゃないかしら。もっと良い場所があるでしょう。ほら、シール学園には国御自慢の大図書館だってあるはずよね。他にも本を読むのに適した場所なんていくつもあると思うのよ」

「残念ながら大図書館は蔵書の状態の確認と修復作業中で使用禁止です。それ以前に学園は新学年の受け入れ準備のための清掃や諸々の準備のために立ち入り禁止。寮の方は大貴族様たちの入寮作業があちこちで行われていて、下手に出歩いていると面倒事に巻き込まれる可能性が大なんですよ」


 ついでに言えば俺に割り当てられた部屋は日当たりが悪く昼でも暗い。読書や勉強をするには不向きなのだ。


「銅貨一枚の寄付すら行っていないから、当然の対応らしいですけどね」


 貴族学園もそうなのだが、シール学園でも入学入寮費以外に寄付金というものが暗に求められている。もっとも、財力や権力を分かり易く表明できる機会でもあるから、率先して支払うお大尽で見栄っ張りな貴族たちも多いそうだが。

 肩をすくめながら説明すると、シシル嬢が嫌悪の色合いを浮かべていた。


 こうやって話していて分かったことなのだが、この人、実はやたらと感情が顔に出るんだよな。

 先日「受付嬢なのにそれは不味いのでは?」と尋ねたら「仕事中はスイッチが切り替わるから問題なしよ」とその豊かな胸を張りながら格好良く言い切られてしまった。

 直後に「そんなことを心配してくれるなんて、やっぱり私に気があるのかしら?」と、今度はそのお胸を強調するようにして揶揄い始めたので、即座に退散する羽目になってしまったのは余談である。


「なんにしても後数日の辛抱ですよ」


 学園が始まってしまえば、堂々と施設を利用できるようになる。実際のところはともかくこういう場所の定番として、シール学園でも「学生は身分関係なく平等」が理念として掲げられているからだ。


「……そっか。こうやってイズナ君が毎日のように来てくれるのは後数日だけなんだ」


 シシル嬢が呟いたその台詞には、大量の寂しさが込められているような気がして。

 今から思えば、きっとそんな気持ちを吹き飛ばしてもらいたかったのだと思う。もっとも、その時はまだ己の感情を理解しているとは言えなかったので、ふと見せた彼女の弱気に付け込んで、これまで揶揄われてきた仕返しをしてやるくらいのつもりだった。


「ん?そんなに俺に会えなくなるのが寂しいんですか?」


 だからまさか、そんな反応を返されるだなどとは思ってもいなくて。


「―――!?」


 声にならない声を上げて真っ赤になってしまったシシル嬢を、ただ驚いて見ているしかできなかったのだった。


 ちなみに、近くの席にいた冒険者たちが血涙を流しながら「ちくしょう!俺だって、俺だって!!」とか「誰かエクスプロージョンを使える魔法使いを呼んで来い!」だとか「俺、今度の仕事を終えたらあの子に気持ちを伝えるんだ……」とか言っていたらしいのだが、どうでもいいので詳しいことは割愛する。


 さて、思わぬことで硬直してしまった俺たちだが、それを解く切欠もまた思わぬ事件となった。


「た、大変だ!!」


 冒険者協会の方からバタン!と大きな音がすると、次いで切羽詰まった叫びが聞こえてきたのである。

 これにはマスターを含め食堂にいた全員で顔を見合わせてしまった。が、当然それでは何が起きたのか分かるはずもなく、飛び込んできたのだろう誰かが発することになる次の言葉を聞こうと神経を集中することになったのだった。


「れ、例のレッドアントが大量発生していて……。しかも一部とは戦闘になっちまってる……!!」


 驚愕の内容に居合わせた全員が息を呑む。

 それはそうだろう、俺だって「何をやっていたんだよ!」と叫び出したい気持ちでいっぱいになっていたのだから。

 聞こえてきた情報を繋ぎ合わせてみたところ、調査隊の中に不慣れな者たちが混じっていて、突出したところを逆にレッドアントの警戒部隊に察知されてしまった、ということのようだ。


 レッドアントは体長八十センチから一メートルほどにもなる大型のアリの魔物で、名前の通り赤い外骨格に覆われている。

 近似種のブラックアントに比べて一回り小さいながらもとかく凶暴で、発見次第討伐が推奨されている魔物の一つだ。


 また、アリという種からも予想できるように、群れになると危険度が格段に増すという性質も持っている。ゲーム的に言えば、大量に周囲を取り囲まれているモンスターハウス状態からのスタートに加えて仲間呼びの特殊能力によって、いつまで経っても戦闘が終わらずジリ貧で倒されてしまうというところか。

 現実にはいっぺんに何匹ものアリに集られて……、とよりグロいことになってしまう。

 はっきり言って、やられるだけでなく見るのも御免な光景である。


 ただ、森の奥まった場所など人里から離れた所で繁殖する傾向があるので、よほど大きな群れにでもならなければ狩人や薬師といった一部の人間を除いて、一般の人間が被害に遭うことはまずないと言える。

 しかしながら、今回に限ってはそれに当てはまらない可能性が高い。

 例の、という枕詞がついていたことから、恐らくは先日俺が情報を持ち込んだレッドアントの繁殖調査の最中に起きたと考えられる。その際証拠として狩ってきた一匹とは森の外縁部、それこそ入ってすぐの辺りで遭遇していたからだ。


「シシルさん、不味いです。戦いになっている調査隊の人たちの安否もですけど、彼らの逃亡経路如何いかんでは、レッドアントに街道を乗っ取られるかもしれない」

「えっ!?」


 路銀を稼ぐために寄り道をしようかと考えるくらいには、街道と森との距離は近付いていた。運悪く食料などを運ぶキャラバンなどが通りがかってしまえば、壊滅させられて最悪は食糧危機を引き起こしてしまうかもしれない。


「いやいや。普通は旅の途中で、しかもついでで森に立ち寄って魔物を狩ろうとする奴なんていねえから」


 横合いからのヤジはともかく、あの場所の地形に関してはシシル嬢にしっかりと伝えることができたようだ。

 柳眉をしかめるとこの情報を職員仲間に伝えるため、急いで冒険者協会側へと駆けて行ったのだった。


 さて、レッドアントが相手となると俺も出なくてはいけなくなるだろうな。

 発見者としての責務もあるが、恐らくは数合わせのために集められるだけの冒険者が全員召集されるはずだ。

 テーブルに積み重ねていた教科書類を一まとめにしてからアイテムボックスへと放り込む。


 レッドアントの最も恐ろしい点はその数の多さだ。よって、どれだけ多くの人数を動員できるかによって難易度が大きく変わってくることになる。

 戦闘になった連中が上手く警戒部隊を殲滅して、情報を遮断することができているなら良いが、もしも伝わってしまった後ならば丸々一つの巣を相手取らなくてはいけなくなる。

 そしてわざわざ報告のために貴重な戦力を寄越したところを見ると、そうなってしまっている可能性が高そうだ。


 今回の場合、森の外縁部で俺が遭遇したのは一匹だけだった。多分、巣のある森の奥からあちこちに偵察派遣されたうちの一匹だったのだろう。

 フォレストオウルやジャイアントスパイダーがしっかりと縄張りを主張していたし、繁殖しているとは言っても森の全てを支配下に置く程の増殖には至っていないと予測できる。


 それでも百を下ることはないはずだ。安全で確実に勝利をするためには、こちらはその半数の五十人は欲しいところだな。

 だが、現在時間は正午直前で多くの冒険者たちはそれこそ仕事に出てしまっている。

 一方の数少ない街に残っている連中も武器や防具の整備中だとか、休みであるのをいいことに昼間から飲んだくれているような奴らばかりと、戦力としてカウントするには不安が募る。


 できることならまとまった数の投入が期待できる、領軍や騎士団に協力を要請したいところだが……。

 冒険者には荒くれ者でならず者一歩手前という輩も多いからなあ。治安維持を目的とする彼らからすれば、敵対とまではいかないにしても良い感情を持っていないという場合も多い。

 聞き入れてくれる以前に果たして耳を貸してくれるかどうか……。


 ともかく、既に単独行動で何とかなる状況ではなくなってしまっている。まずはシシル嬢たち冒険者協会がどのような方針を打ち出すか、だな。

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