本当は怖いラテン語

ネコ エレクトゥス

第1話

 今年の夏は籠城戦になりそうだ。下手すると今年いっぱい、さらには来年にかけても籠城が続くのかもしれない。こんな時だからこそ何かできることはないか、と思って以前から気になっていたラテン語を勉強してみることにした。

 ラテン語。この言語を使って過去にいくつもの神秘的な書物が著された。アウグスティヌスらのキリスト教関連の著作はもちろんのこと、オヴィディウスやセネカらの伝説的な詩人たちの著作。この言語を理解することができるのなら、僕も彼らの到達した深淵にまでたどり着けるのではないか。

 結果的に言うとそう考えたのが勘違いだった。


 では何故そう勘違いしていたのか。それにはラテン語が一体どんな言語なのかというところから始めなければならない。

 ではラテン語になじみのない人にラテン語とはどんな言語なのかをわかってもらうにはどうしたらいいのか。僕らの知っているどんな言語とラテン語は似ているのか。当然フランス語やイタリア語は血縁関係にある言語なのでその名残を深くとどめてはいる。ただそれ以上にラテン語だからこその特徴がある。

 ラテン語にはどんな言語が一番似ているのか?二進法によるコンピューター言語、ないしは化学式。


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 ラテン語はこの調子で動詞や形容詞の語尾を変化させていくことによって事物を区別したり、出来事を表現していく。

 また、H2О。水を表現するのに水素分子二つと酸素分子一つの混合物と表現する。この感覚が非常にラテン語に近い。

 例えば「今日僕は朝にご飯を食べました」というところをラテン語的には「今日僕は朝に蒸したイネ科植物の種を食べました」と表現する。こんな感じだと思ってもらいたい。目前にあるモノの感覚だけがあって、抽象表現が恐ろしいほどに欠けている(性欲は理解できても「愛」は理解できない)。彼らの関心事は実用ということ。ラテン語は現在でも学名として利用されているが事物の細部を表現するのには最適な言語なのは確かである。その一方で水のことをH2Оと常に呼ぶ感覚を持っている人たちがどれほど音楽や芸術から離れたところにいることか。古代ローマでは演劇とはパントマイムのようなものだったと言われる。ラテン語で細かい感情表現をしようと思ったら身振り手振りの助けが必要だったことだろう。

 さらにもう一つのラテン語の特徴が徹底して行動に訴えかける言語である、ということ。

 一線を越えて行動に訴える時に今でも使われる言葉「ルピコン川を渡る」。ラテン語の構造やローマ人の性格を考えるのならこう言わなければならない。

「渡る、ルピコン川を。」

 とにかく行動が強調される言葉で、古代ローマ人の間で弁論術が大変重要視されたというのもうなずける(「渡ろう、ルピコン川を!」)。ジュリアス・シーザーは偉大なる扇動家でもあった。


 このようにこの言語を操り世界帝国を築き上げたローマ人というのは徹底してモノと行動の人たちだった。ただ古代ローマにとって戦争は宿命でもあったので(前進をやめたとき彼らの死が始まる)、その人たちがモノと行動以外を軽んじるのは当然といえば当然なのだが。

 個人的には世界を制圧するためにラテン語を覚えたいかと言われればNoと答えたい。



 

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