第五十九滴 この世界で生きていく

 その日がやって来た。コンクリートに覆われた地下室に、全員が集まっていた。透明のケースの中で、ローザが装置を頭につける。

「本当によろしいのですね?」

 春島が緋呂に尋ねた。全員イデアコズモスに戻ったら装置を壊す。研究資料も抹消する。もう決めたことだ。緋呂は頷く。

 夜中、アドラと手合わせした時のことが脳裏によぎる。

「皆は」

 自然と声に出ていた。全員が緋呂の方を向く。

「これからどうするんだ?」

 まずはクウケンが答えた。

「騎士としての務めを果たします。エルが滅したとはいえ、撒かれた悪意が滅したわけではありませぬ故」

「クウケンらしいな」

 そう語りかける緋呂に、クウケンは微笑んだ。

「性分にございますから」

 次にカットラス。

「…教えたい、子供たちに。…隊長みたいな人がいること、ちゃんと生きること、たくさん。…一緒に。…こんな腕だけど」

 少し俯くカットラスの肩を掴み、緋呂は笑顔で言った。

「大丈夫。カットラスは頭いいし、できるよ。腕は関係ない」

 カットラスの顔つきが明るくなった。

 するとオルキデアが緋呂の傍に寄り、顔をこわばらせながら語った。

「皆を守ります、あなたのように」

 緋呂は犬とじゃれるようにして、オルキデアの頭を掻いた。それから、耳元で囁いた。

「困ったら周りに頼れよ。俺ができなかったことだ」

 先刻とは打って変わり、緊張から覚悟へ、引き締まった表情で頷いた。

 アドラは足早にガラス張りの密室へ入り、緋呂に振り向き無言で見つめてきた。交わすべき言葉は交わした。これ以上は無粋というものだ。アドラならそう言うだろう。緋呂は目線を合わせるのみにとどめた。ローザの脳内に帰る直前、アドラの顔がほころんでいるように見えた。緋呂は微かに笑った。

 挨拶を済ませ、次々とローザの脳内へ帰っていく。芽吹が嗚咽を漏らしながら手を振る。

「みんな、元気でねー!」

 まるで上京する子を見送る母のようだ。そんな規模の話なら、そうやって冗談めかして言っただろう。けれど、そうではない。緋呂は精一杯口を結んだ。

「アタシ、もう耐えられない!」

 そう言って芽吹は地下室から出た。後を追うように春島達も部屋から離れた。残ったのは二人。緋呂とローザ。

 緋呂はドアを開け、ガラス張りの室内に入った。ローザに顔を近づけ、口を動かした。だが、上手く言葉が出ない。すると、いきなりローザが唇に触れてきた。驚き顔を仰け反らせる緋呂を、ローザは笑った。

「からかうなよ」

「いいじゃないか、最後なんだ」

 緋呂の胸が締めつけられる。ああ、やっぱり別れたくない。そんな想いが頭をよぎる。

「写真でも撮ればよかった」

 緋呂が言葉を漏らす。無理だとわかっているのに。異なる世界同士、干渉することはできない。写真も同じ。

「なら、また会おう。夢の中で」

 ローザの返事に、緋呂は目を丸くした。徐々に、言わんとすることがわかった。瑞乃は正義の装置によってイデアコズモスを創り上げた。イデアコズモスは瑞乃の脳内に描かれた心象を基盤とする。それはつまり、夢と同じ。この世の者が眠り、無意識に描かれた心象へ来訪する。保証は無い。だが、

「夢があるな」

 お互いに笑い合った。そして、ローザはおもむろに瞼を下ろした。装置が作動する。ローザが帰るまで、あと十秒。

「おやすみ」私の初恋。

 残り五秒。緋呂は必死に言葉を選んだ。しかし、これしか浮かばなかった。残り二秒。

「いい夢を」

 ローザの瞼が閉じ、動かなくなった。目尻を通る涙を拭き取る。肌に触れる。冷たい。気づけば、瑞乃の身体が元の幼さを取り戻していた。緋呂は天井を見上げ、内眼角付近を押さえる。生暖かい滴が遺体に落ちた。

 地下室を出ると、受話器の傍で芽吹が壁にもたれかかっていた。顔を見せず、芽吹は問う。

「ちゃんと言えた?」

 緋呂は芽吹を腫らした目で見て、満面の笑みを作って頷いた。それから二人は手を繋ぎ、扉を開いた。

 駅まで歩き、緋呂と芽吹は手を離した。

「じゃあ、俺はこれで」

「待って」

 踵を返そうとした緋呂の背中を掴み、芽吹は小さくはっきりと声にした。

「この世界があるってこと自体が、皆がいた証だと思うよ」

 直後、芽吹は顔を赤くしてはにかみながら、駅の方に後ずさりした。それから、いつもの調子で手を振る。

「またね、九条君!」

 またね、か。軽く手を振りながら、緋呂はその言葉を反芻した。

 踵を返し、駅前から歩き出す。途中、不意に緋呂の前を通り過ぎる一枚の花弁が見えた。白、太陽の光を入れる色。たくさんの色を描ける色。

 緋呂は花弁が飛んできた方に顔を向けた。繚乱の花畑。その中で、ひときわ輝く花がひとつ。胡蝶蘭。

「瑞乃の一番好きな花だ」

 花畑の前にしゃがみ、指で優しく触れつつ緋呂は目を細めた。

 顔を上げる。街。世界。人の数だけ、世界に存在する数だけ色を持つ。虹色では表しきれないほど鮮やかで、色とりどりで、綺麗な景色。上には青空が広がる。白い雲が細切れに流れゆく。そして太陽の輝きの中に、全ての世界が包まれる。

「さて」

 緋呂は立ち上がり、両腕を天高く伸ばした。この世界の風を、温度を、光を、もっと感じたくて。

「精一杯、生きようか!」

 大地を一歩ずつ踏みしめる。待っている人がいる。帰ろう、家に。

「もしもし」

 緋呂はポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。

「今日、一緒に食事したいなって。料理?そりゃもちろん──」


 その日、初めて母の手料理を食べた。魚は焦げた部分が目立つうえに、骨の処理も拙い。野菜の切れ方も不恰好で、美世界一味しい料理とは言いづらかった。けれど、世界一満たされる料理だった。

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