第五十八滴 お兄ちゃんと兄さん
目が覚めると、緋呂は大地に横たわっていた。隣でローザが眠っている。すっかり夜空が地上を覆っていた。
暗がりの中で、緋呂を抱きしめる腕があった。目を凝らす。春島の腕だった。春島は緋呂の肩に目をあてて囁いた。
「お帰りなさい、緋呂様。ご無事でなによりです」
かろうじて聞き取れるほどの声。肩に濡れた感触がする。抱きしめる腕の圧で胴が痛い。緋呂は自分の指を動かした。少し軋む。痛覚が戻っている。緋呂の口角が緩んだ。誰の仕業か明らかだった。
「今度から注意するよ。もう失くさなくていいように」
緋呂は削れた土の中を見つめて呟いた。
その直後、ローザが身体を起こした。目をこすり、周囲を見回す。戦友が立っていた。アドラがローザの傍にしゃがみ、肩に手を置く。ローザは腕輪に視線を移し、静かに言った。
「今度は、ちゃんと掴めた」
アドラは微笑み、
「そうか」
と返した。肩に置いた手と、腕輪の付けられた手を繋ぐ。
「俺もだ」
いくつもの星が輝き、地を照らしていた。
その晩、緋呂は眠れなかった。イデアコズモスの面々は明日、元の世界へ旅立つ。ローザが瑞乃の肉体を借りた状態であり、いつまでその魂と身体が維持されるか保証できないからだ。もとはといえば、瑞乃が起こした現象なのだから。
ベットから出て、下の大広間に降りる。明かり一つ灯っていない真っ暗闇。紙切れを踏む音がした。つまみ上げる。紙吹雪の欠片だった。寝る前、緋呂達は『祝勝会』と称し、随分と派手に盛り上がった。春島たちが後片付けをしてくれたが、普段は粉塵さえ残さないほどの腕前だというのに紙切れが落ちている。よほど疲れていたんだろう。緋呂は明るいため息をついた。
そして夜風にでも当たろうと扉に手をかけようとした瞬間、後ろから声がした。
「ヒロか」
目を凝らす。アドラだった。
「お前も寝られないのか?」
振り向き、返事をする。
「そんなところだ」
と、アドラは駆け足気味に近づいてきた。
「少し付き合ってくれ」
扉が開かれる。夜と星の混ざった紺色の光が眩しい。緋呂は言われるまま、アドラの後を着いて行った。
しばらく歩き続け、林の中に入った。突然、アドラが歩みを止める。
「思えば、お前と会った時もこんな夜だった」
空を見上げつつ、アドラは緋呂に語りかける。そして、足元の木の棒を緋呂めがけて放り投げた。もう一本の木の棒を手に取り、アドラは剣を使うように緋呂の胸に突き立てた。
「あの時の決着、まだだったな?」
アドラの頬が上がる。緋呂は悟り、木の棒を重ね合わせた。
「あそこから全部、始まった」
互いの木の棒がぶつかり合う。一進一退、双方譲らぬ剣戟。
「逞しくなったものだ」
アドラの木の棒が緋呂をかすめる。間一髪よけた緋呂は即座に突く動作に入った。だが、背面でいなされる。
「あれだけ戦えば多少はな」
息を切らしながら緋呂は言う。両者が睨み合う。打ち合いでは決着がつかない。ならば乾坤一擲、一瞬に懸ける。木の葉を踏む音が響く。
先に動いたのはアドラだった。胴を狙った横一文字。高速で振り抜かれた木の棒は空を切る。暗夜に溶ける攻撃、普通ならまず確実に避けられない。避けるにしても仰け反るだろう。間違っても受け止めようなどと考える者はいない。
だが、緋呂はこの攻撃に対して踏み込んだ。アドラの攻撃が緋呂の横腹を食う直前、緋呂の持つ木の棒がアドラの首に突き立てられた。互いの手が止まる。夜風が吹き抜ける。木の棒から手を放し、たまらずアドラは笑った。
「我ながら秀逸だったな、流血騎というのは。まさか突っ込んでくるとは思わなかった」
それから緋呂の瞳を見て、
「完敗だ」
と言って、その場で仰向けになった。星空を指さし、アドラは語った。
「元の世界に帰ったら、旅をしようと思う。俺が誰なのか、改めて向き合いたい。犯した罪と共に」
緋呂はアドラの隣にしゃがみこむ。
「その前に一度、ケジメをつけたかった。お前の代用品じゃないことを、もう一度俺自身に証明したかった。結果、負けたけどな」
「いや、勝ったよ」
緋呂が返した。
「あそこでお前は胴、俺は突きを狙った。違うものを選んだ。それで十分だろ」
アドラは瞼を閉じ、頭の後ろに手を組んで微笑んだ。
「かもな。だからこそ旅をしたい」
「そっか」
緋呂は正面の景色を胡乱に捉えて言った。
「ローザはいいのか?やっと会えたんだ、ちゃんと傍にいてやれよ」
「あの白騎士がいる。ローザのことは彼に任せる」
緋呂はアドラの顔を眺め、何拍か後に言葉を出した。
「時間は有限だからな」
神妙な表情で、アドラは答えた。
「胸に刻もう」
アドラが起き上がり、背中についた土を払う。月が照明器具のように、二人の立つ場所を照らし出した。
「いい旅を」
緋呂は手を差し伸べた。アドラは緋呂の手と顔を見て、得心のいった風な笑みを浮かべた。
「お互いにな」
二人は固く握手した。暁が今、世界を包もうとしていた。
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