第五十七滴 胡蝶蘭に『さよなら』を
地球の核、その中央部に神はいた。正確にはいると言うべきか怪しいが。なにぶん、形と呼べるものが無い。緋呂が立っている側の空間以外は全て、地の光に満ち溢れていたから。マグマの色が緋呂を照りつける。緋呂は光に向かって声を張り上げた。
「神よ、話をしに来た!崩壊を止めてくれ!」
すると、光から空気の振動を介さず、言葉が直接耳の中に入り込んできた。
「できない。破壊は免れない」
「クロスカリバーとコクーンセイバー、二つの剣が失われたからか?」
光は沈黙した。正解、といったところか。
「双剣が消え、自他の境界が消えた。己が何なのか、何のために存在するのかわからなくなってしまった」
淡々と言葉を流し込む。光の温度が冷たく感じた。緋呂は思った。今ここにある光(せかい)はかつての自分だ。妹の存在に生きる意味を投げていた自分とまるで同じだ。自己の内に存在証明を持たないから、双剣が消えて在り方を見失ってしまったのだ。
緋呂は光に問う。
「なら、お前はどう在りたいんだ?」
しばらくの静寂の後、光は温度を乱しながら文字を連ねた。
「考えたこともなかった」
やはり。この世界は自己を持っていない。自分が生きたい理由が抜けている。そんな相手に緋呂がかけられる言葉はそう多くない。けれど、緋呂は言葉を重ねたかった。『みんな』を守ることが緋呂の生きたい理由だから。
「これからゆっくり考えればいい」
「だが、私はじきに破壊される」
光の明度が弱くなる。緋呂は消えかかる灯火を身体で覆うように、静かに言った。
「俺が止めるよ。双剣の代わりに、俺が二つの世界を支える」
緋呂は自分の言っていることを理解していた。二つの世界を支える。それはつまり、生命としての生き方を捨てるということ。剣と同じ、世界の境界線として永遠に在り続けるということだと。
「できるわけがない」
光が否定する。けれど、緋呂には確たる手段があった。
「テイルズソードを使う」
鎧から剣が現れる。柄を握り、鍔に視線を集中させた。
「俺はこの力を治す力だと思っていた。でも、それなら双剣を治せなかったのはおかしい。双剣を砕いた九条正義を倒した力が、双剣に劣るなんてことは考えにくいからな。そこで俺は気づいた」
そして、おもむろに切っ先を光に向けた。刃から光の温度が手に伝わる。高低の波が不規則に流れてくる。
「これは治す力じゃない、繋ぐ力だってな」
闇に包まれた世界を治せたのも、仲間や自分の肉体を治せたのも、全ては元の形を繋ぎ止めていたから。だからアピロイドに砕かれ、消え失せた双剣は治せなかった。元の形を失ってしまったから。だから緋呂は今、立つことさえ精一杯なのだ。繋ぎ止められるだけの形質を保てなくなったから。
だからこそ、緋呂は考えた。二つの世界を繋ぎ止めれば、双剣が担っていた境界線の役割を果たせば、世界の破壊を防げるはずだと。
「俺がお前達の柱になる。それで破壊も止められるはずだ」
温度の波が緩やかになり、冷たさが温もりに勝る。疑念、不安、恐怖。
「何故そこまでする?私の存在が何になる?在り方を知れば傷つくかもしれない。ならば、私は壊れたい。なのに何故とどめようとする?」
緋呂はテイルズソードを足元に置き、両手をかざして光を感じた。
「お前と一緒だったから」
瞼を閉じる。瞳に映るのは、生きてきた全ての景色。
「ずっと嫌だった。何で俺は世界(ここ)にいるんだって、瑞乃がいない場所に何の意味があるんだって、この世界は俺を傷つけてばかりだって、ずっと思ってきた」
指を一つずつ折り、光を手の内に握りしめる。冷たい。だが、血が手の内を温める。
「でもイデアコズモスに行って、色んなものを失って、ここに戻ってきた時に思ったんだ。『世界は綺麗だ』って」
光の明度が強くなる。徐々に温度が高まってきた。
「確かに生きていれば嫌というほど傷つく。在り方の違いとか、生きたい理由で悩む。だからこそ綺麗なんだと思う。傷つくから、違うから、悩むから、俺達は手を繋ぎ合える。失いたくないものを知れる。全部、失ったから気づけた」
手を下ろし、目を開き、光を見つめて緋呂は言った。万感の想いを込めて。
「今なら言える。俺は世界(ここ)に生まれてよかった。この気持ちを、誰かに繋ぎ止めたい。だから世界(おまえ)を失いたくない」
光が煌々と輝く。温もりが緋呂を包み、溶けていく。緋呂は再びテイルズソードを手に取り、天高く掲げた。詠唱を呟く。
「その一滴が物語を紡ぐ。滴は脈に、脈は道に。全ての轍は輝きに入(い)る。人の想いを連れて。輝入々想人─テイルズソード─の名の下に」
虹色の光がクリアーな世界を貫き、一筋の線となる。この世とあの世、二つの世界が繋ぎ止められる。透明だった世界は失われた色を取り戻し始めた。緋呂の身体が線と交わっていく。
「本当によかったのか?」
この世が問いかける。
「いいんだ。でも、」
緋呂の声が震える。涙の粒が一つ落ちた。
「生きたかったな、俺も」
その時、緋呂の目の前に異なる色の光の穴が現れた。そこから一人の少女が飛び出した。少女は手を伸ばし、叫ぶ。
「ヒロ!」
緋呂はその手を掴み、抱き寄せる。
「お前を一人にはしない」
ローザが言う。
「ごめん。俺は…」
緋呂の声を、
「私が支える」
瑞乃が遮った。
「お兄ちゃんは生きなきゃ」
鎧が緋呂の身体を離れ、光球がローザの身体を離れ、二つが一つとなる。鎧を纏った瑞乃が、緋呂の代わりにテイルズソードを握った。
「それじゃ、イデアコズモスは…」
「大丈夫。あの世には本物の神様がいるから。私がいなくても、ローザちゃん達は生きていける」
すると、この世が瑞乃に言った。
「保証できない。お前が時間と空間を与え、あの世が魂の安息地でなくなった。永遠の円環を辿らねばならなくなった。あの世の主は是としないだろう」
それを聞き、緋呂はこの世に言った。
「なら、あの世の神に伝えてくれ。俺達には数十年で十分だってな」
しばらくの沈黙が流れ、この世はようやく答えた。
「そう伝えよう」
ローザの顔が明るくなった。
「失いたくないものが多いな、お前は」
この世の言葉に緋呂は微笑み、
「大事だからな、全部」
と答えた。そして緋呂は瑞乃を抱きしめた。二度と感触が消えないように、熱く、強く、抱きしめた。
「いつか、会いに行くから」
瑞乃は頷き、呟いた。
「待ってる」
この世と瑞乃が放った光は緋呂とローザを覆い、地上へ引き上げた。核を離れる直前、緋呂は叫んだ。いつか会おう。それまでは、
「さよなら、瑞乃!」
瑞乃も叫んだ。
「大好きだよ、お兄ちゃん!」
瑞乃の頬を涙がつたった。緋呂を包む光の温もりが嬉しくも、寂しくもあった。それでも緋呂は上を向いた。皆の待つ、地上を向いた。
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