第五十六滴 Sight of Rosa─英雄の手を掴む者─

 ヒロが地球の真ん中に消えた。ローザは項垂れ裂け目を見つめていた。拳を握り、振り上げる。けれど、両肩に背負った無力感が、地面に叩きつけることを是としなかった。力なく腕が下ろされる。口をかたく結び、眉間に皺を寄せた。放っておけば、泣きたくて仕方なくなるから。

「どうしていつもこうなんだ、どうしていつも助けられる…」

 声が震える。

「お前を助けたいのに…」

 決壊。裂け目に涙が落ちていく。遥かな深淵へと呑み込まれる。泣くことしかできない。なのに、その涙さえ跡に残らない。

 後ろを一瞥する。誰もが悔恨に顔を歪ませていた。ローザはヒロをずるいと思った。まるで自分は何も成し得ていない、無力であるかのように振る舞って、その度に無茶な行動ばかりする。そんな無力な人間にずっと助けられてきたというのに。本当に無力なのは、自己の存在を懸けている人間の手すら掴めない人間だというのに。

 不意に足音が聞こえた。顔を上げる。足音の主に対し、ローザよりも先にアドラが声を発した。

「春島」

 そう呼ばれた白黒の衣装に身を包んだ女性は、後ろに同じ服装をした三人の女性を従えていた。春島は手に銀色の箱を抱えて、アドラのもとに寄った。

「こちらの方々は?」

「少し長くなる。後で構わないだろうか」

 複雑な事情を察したのだろう、春島はそれ以上の追求をしなかった。そして今度はアドラが尋ねた。

「何の箱だ?」

 春島の抱えた長方形の箱が開かれる。中には、黒い線の入った鉄の腕輪が一つ入っていた。

「当主様、緋呂様のご両親より預かりました」

 ローザは春島の手と目元が赤くなっているのを見逃さなかった。多分、一悶着あったのだ。

「こちらは正義様の計画に対抗すべく、当主様たちが長年かけて造り上げた装置でございます。手首に装着することで、クオリア空間に入れます」

 春島から出た聞いたことのない言葉に、ローザは唖然とした。アドラも同じらしい。咄嗟に聞き返していた。春島が答える。

「クオリアとは感覚質、すなわち世界の捉え方そのもの、と伺っています。正義様はそれを、この世とあの世の狭間の世界からの情報伝達と捉えたそうです」

 この世とあの世の狭間。双剣の担っていた役目と同じだ。世界の境界線。それでいて、世界の架け橋でもある。つまり、場合によっては片方の情報をもう片方に送れる。ヒロがローザ達の世界に訪れ、ローザ達がヒロの世界に訪れたように。そして、春島の持つ装置はそんな空間に入れる代物である。

 ローザは閃いた。これならヒロを助けられるかもしれない。

「春島、と言ったな」

 ローザは春島の傍に近づき、

「私に付けてくれ。ヒロを助けたい。あそこにいるんだ」

 クリアーな世界の中心地、地球の核を指さす。春島は目を見開き、息を呑んだ。

「私ならやれる。いい方法がある」

 だが、アドラがその手を掴み、

「ダメだ。俺がやる」

 と引き止めた。が、ローザは負けじと反論した。

「先程の説明を受けると、恐らく脳内に流れる情報量は尋常ではないはず」

 アドラは春島の方を向いて確認をとる。春島は苦い顔で、おもむろに頭を下げた。手首と目元の赤さはきっと、一悶着のせいばかりではないのだ。世界の捉え方そのものの空間、つまりそれは無限の情報が飛び交う空間と言っていい。生命の記憶と同じ。現に、春島の鼻周りに固まった血の欠片が見えた。

 兄の顔を見つめ、ローザは続けた。

「血の巫女なら耐えられる」

「俺も背負った経験がある」

 アドラが言い放つと、ローザはアドラの手を払って叫んだ。

「私が背負わせてしまった、だから!」

 空気を吸い込み、音の一つ一つに神経を張り巡らせるかのように、慎重に言った。

「だから今度は、背負いたい」

 ローザの瞳がアドラを見据える。アドラは自分の頭部を握り、唸った後、

「託すぞ」

 腕輪を手に取りローザの手首に嵌めた。すると、芽吹がローザの隣に来て、腕輪の上に手の平を重ねた。

「アタシも」

 次にクウケン。

「想いだけでも同伴させてくだされ」

 カットラスとオルキデアの手の平も重なる。

「…距離、足りなくならないように、おまじない」

「我々があなたの手になります、姫」

 春島たち四人の使用人も、その傍らで手を添える。

「支えるのは得意ですから」

 夏原。

「出迎えるのも、ですね」

 秋森。

「着任して初めての大仕事、頑張ります!」

 冬田。

「ならラッキーね。緋呂様が生まれた時からずっと仕えてきたけれど、これは史上最大規模よ」

 春島が微笑みながら冬田に話しかける。

「だって、初めてですもの。緋呂様が迷惑をおかけになったのは」

 感慨深そうに言葉を漏らす。そして、ローザの耳には届かなかったが、春島は呟いた。

「絶対、死なせるものですか」

 重なるいくつもの手の中に、ようやくアドラが加わった。

「妹に任せる他ないとは、つくづく情けない兄だ」

 すると、光球がアドラの顔の前に浮き、

「譲れるって凄いことだと思う。少なくとも、私はできなかった」

 アドラは苦々しくも口角を上げた。光球がローザの中に入る。ただし、意識はローザのままだ。瑞乃が脳内から語りかける。

「私が手伝う。だからお願い、お兄ちゃんを助けて」

 ローザは瞼を閉じ、手にかかるいくつもの重みと温かさを感じながら頷いた。

「ヒロ、お前を一人にはしない。今度こそ、必ず」

 ローザの身体が光となり、その場から消えた。刹那的な出来事だった。ローザはクオリア空間に入ったのだ。そこは無数の景色と感覚が入り交じったカオスだった。かろうじて正気は保っているものの、少しでも気を緩めたら身体が裂けそうであった。

「どうするの?」

 瑞乃が問う。

「核の情報を取り出す」

 ここが世界の捉え方そのものの空間で、世界の架け橋なのだとしたら、捉えたい世界を取り出せばどこにでも行けるのではないか?例えるならプラットホームだ。行きたい場所に合わせて電車を選べる、駅という限定的な空間に降りられる。

 ローザの思惑を感じ取った瑞乃は、まるで図書館の書籍検索のように、クオリアの情報を統制し始めた。そうして遂に一つの光景を選び抜き、ローザの両手から光の道を出した。光がその光景に刺さる。

「この中に飛び込んで、ローザちゃん」

 ローザの外にはたった一つの道筋、たった一つの光景。ローザの中にはたくさんの想い。そして、全ての行き先はただ一つ。

「会いに行くぞ、ヒロ!」

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