第五十五滴 掟を変える者
テイルズソードを鎧の中に納め、緋呂は空を見上げた。暮れかかる空に雲は一つたりとも残っていない。透き通る天を仰いで、緋呂は改めて実感した。これで全て終わった。
緋呂は振り向き、瑞乃に駆け寄る。
「やったね、お兄ちゃん」
ローザの胸から光球が飛び出し、嬉しそうに話しかける。
「色々言いたいことがあるが、ひとまず言わせてほしい」
胸に手を当て深呼吸し、ローザは声を振り絞った。
「ありがとう、ヒロ」
緋呂は笑顔で頷いた。言葉を返そうとしたが、思い浮かばなかった。今はとにかく胸がいっぱいで、物を言う余裕が無かった。こんなに満たされたのはいつぶりだろう。
すると、ローザの纏っていた深紅の鎧、ヴァキュアスが崩れ始めた。緋呂は息を呑み、咄嗟に手を伸ばす。しかし、鎧は触れた指を通り抜け、塵となって空を舞った。膝から崩れ落ちる緋呂にヴァキュアスは言う。
「我は元より、貴公の一つの忘却に依り蘇りし身。其れが充足されれば、我が役目は終える。万物は流転するという事だ」
鎧の一欠片が消える直前、緋呂は尋ねた。
「教えてくれ。俺は何を忘れ、手に入れたんだ?」
ヴァキュアスは答えた。深く、柔らかく、慈しみに満ち足りた声音で。
「『赦し』だ」
最後の一芥が空気に溶けて消えた。風が緋呂の後ろ髪に吹きつける。ヴァキュアスとは多くのことがあった。決して楽しい思い出とは言えなかったものの、その全てがあって今があるのは確かなのだ。
緋呂は土を握りしめ、元の大地へおもむろに落とす。削った部分に落としても、元通りには戻らない。それを眺めて、緋呂は時の不可逆を思い知った。当たり前のことだ。けれど、やはり厳しい理である。
しかし、緋呂には物思いに耽る間も許されてはいなかった。突如、地面が透明になっていく。驚き辺りを見渡すと、街も、草木も、世界の何もかもがその存在を消されかけていた。
「何が起きているんだ?」
緋呂が瑞乃に問う。カタストロフとも異なる世界の崩壊を前に、瑞乃もただ狼狽えながら、
「わからない。何なの、これ…」
と、呟く他なかった。すると、クウケンが口を開いた。
「この世界の神によるものか、あるいは…」
盲点だった。イデアコズモスに瑞乃がいるように、この世界にも神に等しい上位存在がいてもおかしくない。それが怒り、世界を消そうというのだろうか。
「でも何でだよ。どうしてこっちの神様に消される必要があるんだ?」
オルキデアが戸惑いを露に言う。原因もわからず怒りをぶつけられるのは癪だ。対処のしようもない。そう言わんばかりだった。
「恐らく、生死の境を壊したからだろう」
ローザが、血の巫女が眉間に皺を寄せて語る。
「双剣は世界の象徴だった。クロスカリバーはこの世界、コクーンセイバーは我々の世界。同時に、二つの世界の境界も担っていた。それらが消えた今、世界の隔たりが失われた。そうして自己を保てなくなり、崩壊に向かっているのだろう」
「なら何で壊れた時に崩壊が始まらなかったの?」
光球、瑞乃が疑問を投げかけた。
便宜上神とは言っても、あくまで瑞乃はイデアコズモスにとっての神だ。包摂的にあの世を支配しているわけではない。だが血の巫女、ローザは違う。血の巫女は世界を記録する。知ることにかけては神さえも凌駕する。だから瑞乃は欲したのだ。目覚める術を知るために。
そのローザが言った。
「クジョウマサヨシ、トリックスターだ」
全員が呆然とした。世界はますます透過率を上げ、ヒビを大きくする。矢継ぎ早にローザは続けた。
「奴は掟破りの存在だ。裏を返せば、奴の存在が掟を寸前で維持させていた。だが奴の死と共に、掟は消えた。つまり、」
「…塞き止めるものがなくなったから、一気に壊れ始めた、と」
カットラスが口を挟んだ。ローザが頷く。
「打つ手なし、か…」
アドラは呟いた。やるせなさが漂う。すると、重苦しい空気に風穴を空けるがごとく、芽吹が言葉を発した。
「みんな諦めよすぎ!ここまで来て『はいそうですか』で納得しちゃダメでしょ!最後の最後まで考えなきゃ!」
それから芽吹は緋呂の方を向いて、
「そうやってピンチを乗り越えてきたんでしょ?九条君」
歯が見えるほど満面の笑みを浮かべた。頬の震えている。緋呂は一目で強がっているのだとわかった。今にも世界が消えて無くなろうとしているのだ、怖いに決まっている。それでも笑おうと頑張ってくれたのだ。応えなければ甲斐が無い。信じてくれた甲斐が。
緋呂は考えた。世界を守る方法を。深い思考のために視線を落とす。鎧が目に映った。治癒。そうだ、これがある。
土に手をつけ、緋呂は鎧の力を引き出した。痛覚とリミッターの失われた身体で、限界以上の力を振り絞る。壊れる度に身体を治す。治しては、リソースを再び手に戻す。
だが、いくら力を加えても、双剣が元に戻ることはなかった。力尽き倒れる。土の冷たさが肌に染み渡る。テイルズソードは治す力だ、時を戻す力ではない。
「ダメじゃないよ。まだ、方法が…」
芽吹の声がかすれる。亀裂は核が剥き出しになるほど深い。世界はもう消えかかっていた。
暗闇の中で、緋呂は一つの景色を見た。赤ん坊の頃の記憶。
「この子の名前、どうしましょうか?」
母の声。あまり馴染みがないはずなのに、妙に懐かしく感じた。
「緋呂、というのはどうだろう」
父の声。筆で書かれた二文字が見える。
「緋は英雄の色と言われる。そして、呂という字は高貴な存在に付けられることが多い」
「そういう子に育ってほしい?」
母の問いに父は一呼吸おき、
「生きてくれるなら、何でも」
緋呂は母と同じく、微妙な笑いを浮かべる。不器用な父親だな。自嘲気味に思う。
「それにしても、響きがいいですね。ヒーローみたい」
母は緋呂を見て言う。その微笑みに忌憚は無い。
「そういう子に育ってほしいか?」
父の問いに母はすぐ答えた。
「生きてくれるなら、何でも」
今度は父が微妙な顔をした。やり返されるのはあまり好きではないのだろう。咳払いをし、父は母に語った。
「英雄とは大義を成す者ではない。変化を与える者だ」
「誰の言葉?」
「私の言葉だ」
母は吹き出した。自信満々に切り出した話が持論というのは、確かに中々面白い。けれど、
「素敵な言葉だと思いますよ」
「嘘をつけ。笑っただろう、今」
父が不貞腐れる。まるで子供のようだ。記憶の中の父は厳格だった。イメージと乖離しすぎて困惑してしまう。だが、これを虚構とは思えなかった。他愛なく、屈託の無い会話を聞いて、一体誰が嘘だと言えるだろうか。
母が尋ねた。神妙な顔つきで。
「そういう子に育ってほしい?」
父はしばし黙り、秒針が一周してから口を開いた。
「そう在ることを願う」
二人とも目を伏せ、黙りこくる。緋呂の顔を見つめ、母がため息まじりに呟く。
「私達では叶いませんものね」
「背負うものが大きすぎるのだ。こればかりはどうにもならない」
財閥のことか。今まで、緋呂には両親が悪魔や怪物に見えた。しかし今は違う。むしろ、どうしようもなく自分と同じ人間だと思えた。父の言葉が身に沁みた。
「使用人を雇おう」
父が言う。
「何人にいたします?」
母が聞く。父は二本の指に顎を乗せ、
「四人だな」
と唸った。
「本来かけるべき愛情を思えば、これでも足りないほどだ」
「この子にはつらい思いをさせてしまいますね」
父はスーツのポケットに手を入れ、丁寧に言葉を紡いだ。
「願おう、変化を」
夢は途切れ、緋呂の意識が戻った。直後、緋呂は両親の言葉を反芻した。変化を与える者であってほしい。変化。そうか。緋呂は閃いた。そして再び手を地面に押し当てた。治す力は残っていない。重々承知だ。治すためにやっているのではない。患部を、この世の神を探すためにやっているのだ。
手応えがあった。核の方だ。
「そこか!」
緋呂が亀裂の中に飛び込もうとすると、ローザが緋呂の手を掴んで引いた。
「何をする気だ、ヒロ!」
「神と話す」
ローザは怒気を込めて言い放つ。
「そんな身体でか?」
視線を落とす。力を使いすぎた影響か、関節という関節が脱臼していた。痛覚も無いまま、気がつけば緋呂の肉体は目も当てられぬほど酷使されていた。
「どうしてお前はいつもそうなんだ!自分のことなんてお構い無しに、誰かのため誰かのためと!私は嫌だ…お前が傷ついてまで、救われたくない…」
ローザの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。緋呂は微笑み、それを拭う。そして、心の全てを込めて述べた。
「大事だよ。ローザも、この世界も。当然、自分のことも」
テイルズソードに残された微かな光が、緋呂の身体を治癒する。付け焼き刃で治された身体は歪さを残している。緋呂は再び亀裂の方に目を向けて続けた。
「こういう時、ヒーローなら何て言うんだろうな?俺にはわからない。でも、俺はこう言う。『掟を変えてくる』」
緋呂は大地に立つ。掟破りのトリックスターでもない、掟を創る神でもない、掟を変える者として。そして緋呂はクリアな世界の裂け目へと姿を消した。亀裂の中で、ローザの叫びだけが音として響くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます