第五十四滴 終止符─ピリオド─

 誰かが言う。人は神に創られたと。誰かが言う。神は人に創られたと。運命という蜘蛛の糸で結ばれた人と神。ならば、人が人であることを捨てた時、神は神でいられるだろうか。神が神であることを否(や)めた時、人は人でいられるだろうか。真なる喪失とは恐らく、見る事をやめることなのである。人(おのれ)を、神(だれか)を。


 緋呂たちは身体の萎んだアピロイドに近寄る。異形を震わせ、アピロイドは歯軋りの音を鳴らした。

「僕は神なんだ…そうでなくてはならないんだ…!」

 呻き声に呼応するように、闇が空を侵す。いつしか、世界は闇一色に変わった。

「こんなことで負けられるかよ!」

 あらゆる空間から数多のアピロイドが現れた。同じ生物の蠢く姿はまるで、ロボットが人間社会を支配する映画の一場面のようだった。あるいは、目的も無く大勢が徘徊するゾンビ映画の一場面のようだった。

 後ずさるローザの肩に手を乗せ、アドラは緋呂に語りかけた。

「どうだ、やれそうか?」

 緋呂はテイルズソードを握りしめ、一歩前に踏み出した。

「だから立っているんだろ、俺達」

 駆け出した緋呂を皮切りに、全面衝突が始まった。無数のアピロイドに対し、戦士達は各々の武器に力を込めて立ち向かった。殴っては現れ、斬っては現れ、刺されては治し、焼かれては治し。互いに消耗するばかりであった。

「無尽蔵かよ、瑞乃がいなくなったっていうのに…」

「無限じゃないよ。世界を削って出しているの、あれは」

 瑞乃の返答に、緋呂は奥歯を噛みしめた。奴は何かを犠牲にすることに、何の躊躇も無いのか。許せない、そんなこと。

「テイルズソードの全力を出す。瑞乃、手伝ってくれ」

 その場で立ち止まり、緋呂は剣を天にかざした。刃から一筋の虹が架かる。闇が徐々に晴れていく。やがて、世界の色が取り戻された。これでもう増やせない。光によって弱ったアピロイドの群れは次々に倒され、灰となる。残るアピロイドは一体。

「今度こそ本当に終わりだ、九条正義!」

 すると、アピロイドは突然笑い始めた。気でも違えたかのような挙動を見せた直後、アピロイドの全身が破れた。繭を脱ぐ蝶のように、アピロイドは更なる形を世界に晒した。その恰好は人でもなく、かといって先刻のような例えようのない異形でもなく、種から大蛇が生え現れた。

「何回変身するつもりなんだ、お前!」

 緋呂の叫びに、

「世界が僕を認めるまで、何度でも!」

 蛇は毒の霧を庭全体に発した。顔を出したばかりの芽さえ腐り果てる。仲間が力なく倒れる中、緋呂のみが鎧の防御でどうにか耐えていた。

 テイルズソードを振る。しかし、蛇の身体をすり抜けた。緋呂は目を見開いた。

「どうして!?お兄ちゃんにこの世とあの世の境は関係ないはずなのに!」

 蛇は歪に口角を上げて笑った。

「君はそれを切り札にしていたようだね、ミズノ。厄介だからね。でも、僕は気づいた。僕が『九条』でなければいいのだと」

 緋呂には何を言っているのかわからなかった。が、瑞乃はそれが何を指すのか悟った。

「真のトリックスターになったの?」

 鎧越しに息を呑む瑞乃を睨むように、蛇は言った。

「そう、僕はここにいてここにいない!君たちが僕に触れることは不可能!何故なら、君たちは所詮登場人物だから!九条という物語の一部でしかないんだよ!」

 その言葉、勝ち誇った蛇の態度から、緋呂はようやく状況を理解した。

「俺達『九条』の人間に手出しはできないってことか…」

 緋呂は愕然とした。反則だ。この世にもあの世にもいない。だが、確かに干渉できる。誰に止められるというのだ、そんな掟破り─トリックスター─を。

「わかったろう?緋呂、君には何もできない。おとなしく自分の世界に引きこもっていればよかったんだよ」

 『自分の世界』?緋呂は思い出した。電車から見た流れる景色。釣り堀の煌めく水面。夏だというのに吹きつけてくる冷風。跳ねる魚たち。そして、一人の少女。緋呂に世界の広さを教えてくれた少女。

 いるじゃないか、たった一人。

「瑞乃」

 緋呂は呟いた。

「呼んでくれ、芽吹を」

 狙いを呑み込み、合点がいった瑞乃は緋呂に頼んだ。

「ローザちゃんの所に行って。じゃないとできないよ、それは」

 緋呂は頷き、蛇の飛牙(ひが)による追撃をかわしつつローザの傍に駆け寄った。そして、ローザの背中に手を当て、毒を癒す。気を取り戻したローザに、瑞乃は言った。

「ローザちゃん。お願いしていいかな」

 鎧を見つめローザは、

「何だ」

「身体を貸してほしいの」

 ローザは頭を抱えてぼやいた。

「常々、嫌な星回りだよ私は…」

「ローザ、気持ちはわかるが…」

「親の仇に他人を入れ物扱いする神、双方に手を差し伸べねばならないんだからな」

 ため息まじりに言うローザの表情は、どこか充足すら感じさせるものだった。ローザは面(おもて)を上げ、人を導く者の顔つきで述べた。

「二度も言わんぞ、神よ。ローゼンメイデン王国女王、ローザとして命じる。民を守れ」

 鎧からこぼれ落ちた光球が、ローザの中に入り込む。目の色を変え、瑞乃は構えた。飛牙を合図に、緋呂と瑞乃は蛇に向かって疾走する。

「無駄なことが好きみたいだね、君たちは!」

 蛇の腹の傍で、瑞乃は手をかざした。すると、手から光が放たれ、芽吹が射出された。

「芽吹、刺せ!」

 緋呂は芽吹めがけてテイルズソードを投げ渡す。剣を握った芽吹の腕が振り下ろされる。蛇の腹が裂かれた。血も流れぬまま、蛇は断末魔を上げた。

「これでも無駄って言えるか?」

 緋呂は蛇に向かって叫んだ。だが、蛇は空気の抜けた風船のようになったかと思うと、種から再び蛇が生えてきた。蛇の毒牙から芽吹を庇い、緋呂は弾き飛ばされた。緋呂を見下ろし、蛇は言った。

「ああ、無駄だね!」

 蛇が緋呂に気を取られている間、瑞乃はテイルズソードが緑色に光っていることに気づいた。この光は何なのか。瑞乃は考えた。未知の存在の道理を考えた。剣を召喚する、あるいは剣が光を纏う時、詠唱が必須となる。しかし、詠唱も無く光った。何故?きっと条件があるのだ。

 詠唱を度外視して考えてみよう。クロスカリバーが光るのは、己の存在証明を犠牲にする時。コクーンセイバーは他人の存在証明を得た時。テイルズソードが光るのは何故?緋呂が光らせた以外には、芽吹が握り、剣を用いた後に光った。この二人に共通するのは?この世に生きる者、だろうか。いや、恐らく違う。あの世の武器と同じ反応を見せたものが、あの世と無関係とは到底思えない。それに、二つの剣は人間の内面に影響を受けている。生死という外面に影響はされないはずだ。

 とすればもう一つ、考えられるものがある。とにかく試すしかない。瑞乃はテイルズソードを手に取り、蛇に斬りかかった。蛇の首に傷が入る。当たった?

「解したぞ、神」

 ヴァキュアスが告げる。テイルズソードは青、橙、白の光を纏う。

「虹の剣の仕組みが」

 瑞乃はヴァキュアスの伝えた内容を聞くや、緋呂に呼びかけた。

「お兄ちゃん、皆を治して!やりたいことがあるの!」

「させるか!」

 蛇が牙を剥く。しかし、障壁が寸前で食い止める。緋呂は急ぎ全員の毒を治癒した。とはいえ、霧は尚も漂う。そう時間はもたない。

「やったぞ、瑞乃!」

「じゃあいくよ、まずはアドラ!」

 と、瑞乃はテイルズソードを投げた。柄を掴み、アドラは問う。

「これで斬れと?」

「そう!そしたら次は他の誰かに投げて!私と芽吹さん以外で!」

 納得はできなかった。だが、嘘とも思えなかった。それ以上に、今は目の前に倒すべき敵がいる。アドラはテイルズソードを片手に走り出した。蛇の腹を斬る。深紅の光が宿る。その温かさに触れ、アドラは微笑んだ。

「なるほどな」

 そして、アドラはテイルズソードを投げた。

「騎士共、受け取れ!」

 テイルズソードはクウケンの方に飛ぶ。

「雑に呼ばれたものだ!」

 屈強な腕で剣を振る。蛇の鱗が砕けた。黄色の光が灯る。

「カットラス、受け取れ!」

 テイルズソードが両手のカッターに挟まれ、

「…逃さない!」

 勢いよく喉に向かって投げられた。カットラスは着地と共に素早く蛇の真下に入り、オーバーヘッドキックでテイルズソードを宙に蹴り上げた。紫の光が彩られる。

「…隊長!」

 緋呂は跳び、テイルズソードをその手に持った。聞こえる。伝わる。皆の想いが。輝きの中に入る、様々な彩りが。剣を振りかぶり、蛇の頭を標的を合わせる。

「喰らえ!」

 しかし、蛇は額から鱗を飛ばし、緋呂の不意を突いた。テイルズソードが彼方に舞う。

「今度こそおしまいだな、流血騎!」

 蛇は勝利を確信した。ところが、一つの人影がテイルズソードを掴み、金色の光を輝かせて鱗の剥がれたばかりの額に刺した。

「伏兵登場、ってな」

 オルキデアが蛇の顔の上で笑みを浮かべた。

「今だ、緋呂さん!」

 オルキデアはテイルズソードを引き、緋呂に投げた。再び緋呂はテイルズソードを掴み、種の方へ走る。皆の声が緋呂の背中を押す。

「走れ、九条君!」

「もう少しだ、ヒロ!」

「刻め、流血騎!」

「勝て、ヒロ!」

「行け、ヒロ殿!」

「…決めて、隊長!」

「トドメだ、緋呂さん!」

 仲間の声、そして──

「頑張って、お兄ちゃん!」

 最愛の妹の声。輝きに入る想いという名の物語を紡ぐ剣、テイルズソード。最後の光が、緋色の光が迸る。その一撃が種を断つ。

「なぜ負けた、なぜ…」

 無に散る間際、種は、九条正義は言った。

「僕は、誰…?」

 緋呂は振り向かず、瞼を閉じて答えた。そうしなければ、涙が流れそうな気がしたから。

「九条正義。俺と瑞乃のお祖父ちゃんで…失いすぎた人だよ」

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