第五十二滴 胡蝶蘭の騎士
アピロイドと名乗るそれは黒い体表をしていた。その黒さはもはや、言語という人類の道具で解釈しきれる枠にはいなかった。強いて言うのなら、まるで世界の一点だけが喰われたかのような、そんな色だった。
「アピロイド。良いとは思わないかい?無限類。まさに神そのものだ!二人はどう思う?」
玩具で遊ぶ子供のように、楽しげに尋ねる。背中からおびただしいほどの血を流しつつ、ローザは振り向いて答えた。
「安いな、神というのは」
そしてそのままアピロイドに向けて手をかざした。だが、何も起きない。ローザとアピロイドの間を風が吹き抜けるのみであった。自分の手を見つめ、目を見開くローザをアピロイドは、
「無理無理。今、ミズノは僕の中にいるから」
と、胸に手を当てながら嘲り笑った。
「どうやって生き返った」
冷や汗が緋呂の頬をしたたる。するとアピロイドは黒く丸い頭に指さして、出来の悪い生徒に言い聞かせる捻くれ者の教師のような口調で言った。
「何回も言わせないでくれよ。イデアコズモスは九条家の人間の魂が形を持った世界だ。今まで形を与えていたのはミズノだった。なら、僕がここに立っていてもおかしくないだろう?一回死んでいるんだしさ」
一通り説明し終えた後、アピロイドはあっけらかんとした態度で補足した。
「ま、僕は例外なんだけどね。形は決めてくれなかったし、前の記憶も持ったままだし。トリックスターの名は伊達じゃないってとこだ」
アピロイドは下品に大笑いした。無知な相手に対し知識をひけらかし、優越感に浸る意地悪な子供がするように。
刹那、緋呂は鎧を纏い、双剣を拾い、光が地表に到達するよりも速く、アピロイドに向けて両刃を突き立てた。だが、二つの刃はアピロイドのかざした手の平の前で止められた。アピロイドは頭を掻きながら無感情にごちる。
「生死を越えたところでこんなものか。何だろうね。期待しすぎたのか、使用者が悪いのか。いずれにせよ、」
黒い指の関節が一つずつ折り畳まれる。双剣にヒビが入る。最後の一つが折り畳まれるのと同時に、
「ガッカリだよ」
双剣は粉塵に変わった。緋呂もヴァキュアスも絶句した。呆然とする間にみぞおちをアピロイドに蹴られ、緋呂の身体は庭の端まで吹き飛ばされた。衝撃で吐血する。もう体内の血もろくに残っていない。関節も軋む。筋繊維は破壊され尽くした。生きているのがやっとだ。
アピロイドがローザの頭を掴み上げ、ゆっくりと緋呂の前に近寄る。
「ヒロ、君がやってきたことなんてこんなものだ。僕の手の平一つで簡単に失われる。軽い。安い。何故かわかるかい?」
空気に触れるだけでも激痛が走る。双剣という支えの喪失。緋呂に受け答えする余裕はもう無かった。アピロイドはそんな緋呂に顔を突き合わせ、垂れた前髪に息を吹いた。緋呂の痛覚という痛覚が悲鳴をあげた。
「君達の信念は薄い。妹の望みを叶えたい?陳腐にも程がある。昔の思い出に縛られて情けない。君にはオーバーロードですら過大評価だよ」
さらに、アピロイドは兜を持ち上げ、
「消えたと思ったら一心同体になったのか。しぶといねぇ。感心感心」
特に感心しているわけでもない声音で言い、兜の中身を覗き見て続けた。
「君は目的すらわかってなかったね。『何となく』世界を支配しようとし、『何となく』オーバーロードに惹かれ、『何となく』手を組もうとした。まさに虚無だ。そんな奴が何かを残せるわけないだろ」
そう言ってアピロイドは兜を握り潰した。ひしゃげた兜が虚しく落とされる。音も立たない。アピロイドはローザを一瞥し、汚らわしそうに吐き捨てた。
「本当によく似ているよ。イラつくほどに。気持ち悪いんだよね、ただの器が意思を持って動くなんてさ」
泥が払われるように、ローザは手首のスナップで彼方に飛ばされた。顔から着地し、土まみれになる。その光景を朧気ながら捉えた緋呂の目は血走り、アピロイドに殴打するだけの力を引き出した。
「やめろ…!」
今にも息絶えそうな緋呂の首を、アピロイドは力一杯握りしめた。血の流れが止められる。
「いいかいヒロ、あれは所詮作り物なんだよ。絵本の世界の住人なんだよ。君の妹なんかじゃない。わかれよ、気持ち悪いなぁ」
緋呂はアピロイドの手をほどこうと触れた。その行為はアピロイドの怒りを最高潮まで押し上げた。
「君なんか、一生自分の世界に閉じこもっていればよかったんだ!」
アピロイドは緋呂を九条邸に投げた。壁を破り、緋呂の身体は転がり回る。瓦礫が緋呂を囲む。もう息もできなくなっていた。死の足音が聞こえていた。
事切れそうな緋呂の目に、白が一つ映った。呼吸なんてできないはずなのに、粉塵にまみれてマトモな匂いなんてしないはずなのに、緋呂にはそれが何なのか、直感でわかった。胡蝶蘭。瑞乃がこの世界を愛した証。緋呂は胡蝶蘭に手を伸ばした。胡蝶蘭の光に誘われ、全てが始まった。今度はこちらが迎えよう。九条緋呂は胡蝶蘭の、瑞乃の騎士だから。
その時、花弁が一つ、また一つ、緋呂の周りを舞い始めた。緋呂の身体が太陽に照らされる。温かな光に誘われるように、花弁は緋呂と結合する。それと共に、花弁は胡蝶蘭を彷彿とさせる純白の鎧に変わった。優しい香りに包まれて、緋呂の傷が癒される。
緋呂は瞼を閉じ、詠唱を呟いた。これまでの全てを言葉に乗せて。
「失い続け涙した。理想に破れ傷ついた。それでも、喪失の物語に一筋の光を見つけた。世界の輝きを知った。立ち上がれ騎士よ、手を伸ばせ勇者よ、奴にその名を轟かせよ。俺は──流血騎、九条緋呂!」
虹色の剣が緋呂の手に宿る。燦然と煌めく光の中、緋呂は叫んだ。
「世界を守る騎士だ!」
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