第五十一滴 会いたかったよ

 七年前のあの日からずっと、庭に立ち入っていない。足を踏み入れれば嫌でも痛感する。最愛の妹の死。受け入れたくない現実。呪いみたいだ。けれど、裏を返せばそれは祈りでもあったのだ。思い出を輝かしいもののままでいさせたい。その祈りを無下にしたくなかった。

 だがまさか、そんな場所で妹と対峙することになろうとは、緋呂には想像もつかなかった。すっかり更地となってしまったかつての庭を見回し、瑞乃は悲しげに言った。

「やっぱり嫌いになったんだ、私のこと」

「違う」

 緋呂は即座に否定し、

「瑞乃のように育てられる自信が無かった」

 と続けた。本心だ。この庭を誰よりも好いていたのは瑞乃で、ならばそれに見合う程に育てられなければ花に失礼だと思った。

 だが、瑞乃は癇癪を起こした。

「嘘!いっぱい遊んだじゃん、このお庭で。なのに失くなって、お兄ちゃんをいじめる皆を助けようとなんかして。私のこと嫌いなんでしょ!」

「そんなわけないだろ!」

 二人して息が荒くなる。風も吹かない庭の中で、沈黙が流れる。

 次に言葉を発したのは瑞乃だった。

「じゃあ、置いてよ」

 瑞乃は緋呂の持つクロスカリバーを指さした。緋呂の肌から冷や汗が垂れる。

「置いたらどうする?」

「壊す。お庭も、何もかも全部」

「なら無理だ」

 緋呂はクロスカリバーを握り直し、刃を瑞乃に向けた。

「言っただろ、俺は瑞乃を叱りに来た。『そんなことするな』って、止めるために」

 押し黙った後、瑞乃は破れた翼を折り畳み、両刃の鎌に形を変えて持ち構えた。

「もういいよ。お兄ちゃんなんか、大嫌…」

 瑞乃は言い終える直前、声を噛み殺して言い直した。

「お兄ちゃんの目を醒ましてあげる!」

 両刃の鎌が白く輝き、緋呂の肩をかすめた。刹那、鎧越しに両肩からおびただしいほどの血が噴き上がった。庭だった土地に抉り跡が二つ。剥き出しになった地殻を一瞥し、緋呂は息を呑んだ。

「不味いな。直撃は死に直結する」

 ヴァキュアスの無機質な声から、わずかながら恐怖の念が滲み出ていた。間髪入れず、瑞乃が緋呂に顔面を突き合わせてくる。鎌の連続攻撃を凌ぐべく詠唱を呟こうにも、息をする間すら与えてはくれない。何発かは防げたものの、大半は鎧を裂いて緋呂の身体に傷を刻みつけた。その様子を見て、瑞乃は悲痛に懇願する。

「もういいでしょ?やめようよ。勝てないの、わかるでしょ?このままじゃお兄ちゃん、死んじゃうよ」

 筋繊維すらマトモに動かない中、それでも緋呂は立ち上がろうと身をよじらせる。

「誰が、やめるかよ」

 吐血し、呼吸すら忘れそうになりながらも、緋呂は続けた。

「妹が、間違えそうになっているんだ、ここでやめたら、お兄ちゃん失格だろ」

 それを聞いて、瑞乃は涙を湛え激昂した。

「お兄ちゃんは私のこと何にもわかってない!私はただ、お兄ちゃんに幸せでいてほしいだけなのに…」

 わかってない、か。緋呂は笑みを浮かべ、ヴァキュアスに提案した。

「コクーンセイバー、使うぞ」

「良いのか?己が契りを破る事になる」

 ヴァキュアスの言うことはもっともだ。誰かの存在証明を勝手に借りて力に変えようなんて、そんな事はしたくないと言ったのは緋呂自身だというのに。

 けれど、緋呂の意図は違った。

「見るだけだ。知りたいんだよ、瑞乃の気持ちを」

 胸から血が緩やかに外へ出る。血は集約し、柄を作った。緋呂は柄を引っ張り、心臓から刀身を抜き出す。コクーンセイバーは蒼い光に包まれ、緋呂の脳内に瑞乃の記憶を流し込んだ。

「やめて、お兄ちゃん!」

 コクーンセイバーが光を放つや否や、瑞乃は両刃の鎌を振りかざした。

「それ、やめてよ」

「やめない」

「お兄ちゃんじゃなくなっちゃう」

「俺はここにいる」

 鎌の攻撃を受け止めつつ、緋呂は瑞乃の記憶を見た。瑞乃の五感が伝わる。エル城の時もそうだったが、自己の存在が呑まれそうなほど生々しい。まるで、アドラが語った血の巫女の血のようだ。もし、これを喪失させずにおいたとしたら。想像するだけで恐ろしい。だが、緋呂にその選択肢は無かった。妹の記憶を見る。正面切って見る。そのために選んだ力の使い方だから。

 そこは何もない白の世界。直感でわかった。死後の世界だ。瑞乃は広大な景色の中、たった独りで泣いていた。膝を抱え、顔をうずめて。嗚咽を漏らし、度々呟いた。

「お兄ちゃん、会いたい」

 と。瑞乃の抱いた様々な感情が緋呂を取り囲んだ。悲しみ、苦しみ、戸惑い、親愛、恋慕。それらをはじめとした心がない交ぜになって押し寄せる。得体の知れない概念として。ただ、確実に言えることは一つだけあった。

 緋呂は双剣を捨て、鎧も納め、瑞乃の身体を抱きしめた。背中から血を流しながら。鎌に背骨を刺されながら。息も絶え絶えに、緋呂は言った。

「俺も会いたかった。ずっと、会いたかったよ」

 瑞乃の前髪をかき上げ、頬に口づけする。昔よりも高い位置だった。そして、昔と変わらず、柔らかな笑顔で言った。

「大きくなったな、瑞乃」

 瑞乃は頷き、

「私、二個上なんだ。十九歳。時間を速くしたの。大きくなりたくて。だって、大きくなれなかったもん。お兄ちゃんと同じ所、行けなかったもん」

 途端、涙を流した。幼い子供のように顔をくしゃくしゃにして、言葉に詰まりつつ叫んだ。

「ごめんなさい。わかってた。ホントはわたし、わたしただ、おにいちゃんといっしょにいたかっただけ」

 緋呂は瑞乃の頭を優しく撫でて囁いた。

「ここにいるよ」

 真っ白に染め上げられた世界が元の姿を取り戻していく。曇り空を突き破り、日光が二人の頭上を照らす。一粒の涙が、更地に生えた芽を潤した。

「返すね、身体」

 瑞乃がそう言うと、瑞乃の全身から力が抜けた。緋呂の腕に突然重みが増す。すると、

「ヒロ、なのか…?」

 ローザが目を覚ました。呆気にとられつつ、徐々に瑞乃を通して得た記憶や体験に実感が生まれ、ローザは緋呂に抱きついた。

「会いたかった。ずっと信じていた。生きていると。また会えると」

 瑞乃とは異なる瞳の輝きで、ローザは緋呂を見つめて言った。

「約束、果たしてくれたんだな」

 緋呂は安堵で顔がほころんだ。

 その時。

「いいや。君に約束は果たせない」

 突如ローザが悶え苦しみ、背中を破って黒い塊が這い出てきた。黒い塊は人の形をとってはいるが、目も鼻も口も見当たらない。黒く塗り潰された簡素な人体から異様な不気味さが放たれる。だが、その老獪な口調は二人といない。緋呂は悟った。

「九条正義…!」

 舌を鳴らしつつ指を振り、黒人間は否定した。すかさず黒人間は大仰に自己紹介をした。

「いいや、それは以前の名だ。僕は世を正す者。人造神、『アピロイド』」

 アピロイドは不敵に笑って続けた。

「会いたかったよ、ヒロ」

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