第五十滴 翳る雪を晴らすのは

 【荼毘】意味 遺体を火葬して弔うこと。


 アドラは満身創痍のオルキデアを背に、二人の猛者を相手にしようとしていた。ヒュブリスは吸い込めばたちまち死に至る結晶を舞わせる。氷柱や凍結といった攻撃も侮れない。それに素の戦闘力自体も高い。簡単には懐に入らせてくれないだろう。

 カゲリの戦闘力は脅威ではないが、千里眼はあらゆる事象を視られる。血の巫女に匹敵できる世界の観測者がいるとするならば、カゲリを置いて他には無いだろう。部外者(トリックスター)のクジョウマサヒロを除いて、ではあるが。

「さて、どうしたものか」

 そう言うアドラの頬は緩んでいた。間接的とはいえ、ようやくエル王国への復讐を果たせるのだ。たとえ世界の構造を知ろうと、そこで生きて芽生えた感情までは消えない。当然、昂りもする。

 作戦を考えよう。まず、ヒュブリスと間合いを詰めるのは得策ではない。こう単純な地形で素直に近接戦闘をするのは自殺行為に等しい。吸えば死ぬ、凍り死ぬ。オーバーロードの力があれば、強引に押し切れただろう。だが、

「ただの王子だからな。今の俺は」

 オルキデアを一瞥する。よく耐えたものだ。今度はこちらが応えねば。アドラの身体を熱い血が流れる。内側から焼かれるのではないかと錯覚するほど、その液体は滾っていた。

 白紙の大地で足を踏ん張る。アドラは膝を曲げ、臨戦態勢をとった。一つだけ突破口がある。三銃士として活動するなか、アドラは彼女の、カゲリのとある習性に気づいた。カゲリはヒュブリスに対して過度なまでに献身的なのだ。うまくいけば同時に倒すこともできる。

 その確信を胸に、アドラはヒュブリスの方へ全速力で突進した。ヒュブリスが両手から冷気を放つ。踏みしめるアドラの足に冷気がかかる。捉えられた。すかさずアドラは跳び、ヒュブリスに向かって回し蹴りをする。

 案の定、代わりにカゲリがアドラに蹴り飛ばされた。ちょうど後ろにいたヒュブリスも巻き込まれ、冷気がおさまった。頭を振り、すぐにヒュブリスはカゲリを押し退けて氷柱を地面から生やした。氷柱はアドラの脚をかすめ、血をまとわりつかせながら高く伸びる。

 アドラが視線を外した隙に、ヒュブリスはアドラの胸めがけて氷柱を伸ばしてきた。刺される。咄嗟にかわす。が、氷柱の勢いに押されてアドラの身体は右側へ転がった。

 起き上がる寸前、下になった右足に違和感を覚えた。金属の感触。目を向けると、踵が剣に触れていた。オルキデアが落としたのだろうか。アドラは振り向き、オルキデアを見る。オルキデアは右手を突き出し、肩で息をしながら立っていた。投げたのか。直後、魂が抜けたようにオルキデアは膝から倒れ伏した。

「少年…」

 アドラが声を漏らすと、ヒュブリスが、

「よそ見すんじゃねぇ!」

 と、吼えながら走り、絶対零度の手の平をアドラの顔に近づけてきた。反射的にアドラは身を翻し、剣を手に取った。至近距離から氷塊が次々に投げられる。剣で受け止めるのが精一杯だった。氷塊の威力に押され、後ずさる。

「そのまま死ねや、スカルバーン!」

 ヒュブリスが猛る。

「意識を取り戻したのか…!」

 アドラが尋ねる。

「またか、またそうやって上から目線か!」

 氷塊が形を変え、砕かれた粉塵が集まり、氷の大剣となった。ヒュブリスは我武者羅に大剣を振り回す。剣戟はアドラの土壌、今度は逆にアドラがヒュブリスを押し始めた。

「何なんだよどいつもこいつも!オレをバカにしやがって!ぶっ壊れちまえよ全部!」

 叫び虚しく、ヒュブリスの大剣は砕け散った。宙に舞う氷を見上げ、ヒュブリスは胡乱に呟いた。

「オレだって、誰かに…」

 アドラがヒュブリスの身体に切っ先を向ける。何かを諦めたように、ヒュブリスは躊躇い無く瞼を閉じた。だが、ヒュブリスの身体に痛みは走らなかった。瞼が開かれる。胸から血は流れていなかった。代わりに、目の前でカゲリが血を吹き出していた。

 白無垢を赤く染めるカゲリを見下ろし、ヒュブリスは涙を流しながら髪を掻き乱した。

「ざまぁねぇな!オレなんか庇うからそうなるんだ!いつもそうだ!オレがどんだけ遠ざけたって、テメーはそうやってオレを庇いやがる!憐れみか?憐れんでんだろ!」

 震える声で扱き下ろすヒュブリスを、カゲリは力無く抱き締めた。目深に被られた綿帽子が落ちる。それに伴い、綿帽子に繋がれていた猿轡の紐がほどける。カゲリは瑠璃のように鮮やかな瞳でヒュブリスを見つめ、言った。

「貴方を、見ています。今までも、これからも、ずっと」

 そしてヒュブリスは視た。かつての自分の形を。


 これはいつか、どこかの話。貿易商の男と欧米の娘の間に生まれた子がいた。名は雪太。驟雪吹く日に生まれたから雪太。髪は金色で、近所の者からは鬼のようだと気味悪がられた。しかし、雪太の根の明るさ故に、そうした悪評は呆気なく覆された。雪太は白雪のように純粋で、彼の周りは笑顔が絶えなかった。誰もが彼を愛していた。

 ある日、雪太の住む町に華美な馬車が訪れた。その馬車に乗るのはなんでも、とある町に拠点を置く財閥の一人娘らしい。町は娘の噂で持ちきりだった。もちろん、雪太もそんな野次馬の一人である。娘の顔を見てみたい。雪太は人混みをかき分け、馬車の中から現れる人影の正体を捉えようと目を凝らした。

 光が娘を照らす。軽くたわんだ黒髪、ガラス細工のように繊細な肌、潤んだ唇、瑠璃のように綺麗な瞳。雪太は一目惚れした。同時に、一つの望みが芽生えた。あの娘と話をしたい。

 雪太は財閥の滞在する一週間、娘と話すために様々な手を尽くした。監視官の目を盗んで旅行客用の館に忍び込んだり、噂を嗅ぎつけては偶然を装ってその土地に赴いたり、思いつくことは全てした。しかし、上手くはいかなかった。

 最後の一日、雪太は半ば諦めていた。せめて最後に一目だけでも、その程度の意識であった。だが夕刻、財閥の一団が元の地へ帰る時間のこと。雪太はため息をつきながら、呉服屋の前の菓子屋で団子を頬張っていた。

「ま、所詮一目惚れだしな。でもなぁ…」

 そんな雪太の横を娘が通り過ぎた。呉服屋から出て来て。雪太は迷わず声をかけた。

「あの」

 とはいえ、唐突すぎて何の言葉も出てこなかった。ままよと振り絞ったのが、

「お団子、食べるッスか?」

 ぎこちない敬語であった。やってしまった。雪太は居心地悪く髪を横に流した。だが、予想はいい意味で裏切られた。娘は微笑み、雪太の所へ近寄った。

「はい、喜んで」

 雪太と娘は菓子屋の長椅子座に腰かける。雪太は団子の味も忘れ、ひたすら娘の横顔を見ていた。

「そういえば」

 雪太が聞く。

「名前は?オレ、雪太」

「陽子。九条陽子と申します」

 ナプキンで口を拭き、陽子は席を立つ。

「では、失礼します。ありがとうございました。お団子、とても美味でした」

 スカートの裾を上げ、恭しく挨拶する。陽子はおもむろに振り向き、その場を去ろうとしたが、

「待って」

 雪太の声に反応して足を止めた。次は何て言おう、雪太は口に出してから考えた。何でもないんだ。そう言うのは簡単だ。でも、もう会えないかもしれない。そう思うと、無性に止めたくなった。頭の中で必死に言葉を紡ぎ出す。

「また、会える?」

 結局口から出た言葉は何の捻りも無かった。もっと勉学に励めばよかった。雪太は自分の学の無さをこの上なく恨んだ。

 すると、陽子は踵を返し、雪太の耳に顔を寄せて囁いた。

「では明日、町外れの桜並木に来てください。一番美しい桜の下、待っております」

 翌日、雪太は起きるなり脱兎のごとく走り出した。町外れまで訪れた辺りで雪太は気づいて空を見上げる。曇天。そういえば、今は冬だ。一番美しい桜を見分けられない。焦燥。ならば手当たり次第、探していくしかない。

 雪太はより一層速く走った。熱と寒さで肌が赤くなる。近郊の人々に道を聞き、ようやくたどり着く。そこに見えるのは幾多の枯れ木であった。一体どれが一番美しい桜なのだろうか。雪太は全ての枯れ木を精査した。木肌から根の生え方から枝の分かれ方から、隅々まで見た。そして、

「これだ」

 ようやく最高の一本を見つけ、手をついた。正直、しっかり違いを見分けられているのか判断しかねる。だが、考えうる限りの一本を選んだ。雪太は白い息を吐き、身体中から湯気を出しながら、木の後ろを見た。誰もいない。違ったのか?様々に入り組んだ負の意識が雪太の胸中に降り積もる。

「それが一番美しい桜ですか?」

 と、後ろから声がした。振り向く雪太の視界に陽子はいた。

「貴方に選んでほしかった。意地悪、だったでしょうか?」

 雪太は慌てて首を振り、

「すっごく良いと思う。すっごく疲れたけど、やってて感じたんだ。なんか、『世界って良いな』ってさ。だから良いよ、すっごく」

 夢中で言葉を紡いだ。陽子は笑い出し、雪太の髪を掻き分けた。息が雪太の肌に当たる。

「綺麗な髪」

 そして陽子は満面の笑みを浮かべて言った。

「雪太さん。貴方、とても面白い」

 陽子の無邪気な笑顔を見て、雪太も顔がほころんだ。二人の間を雪が舞った。空は銀色の粒でいっぱいになっていた。

 それからというもの、雪太と陽子は隠れて会っては語らい合った。こんな商人を相手にしたとか、得意先から貰った花が綺麗だったとか、他愛ないことばかりであったが、そんな時間が雪太にとっては何よりも幸せであった。世界を一番美しいと思えた。

 だが、花が枯れるように、雪が溶けるように、美しさは諸行無常である。

 時が流れ、日本は外国の者を蔑む風潮にあった。植民地と化していた韓国や満州の者は特にそうであった。とはいえ、列強と称されていた欧米の者が例外にあったわけではない。同盟は結べど、髪や肌や瞳の色、言葉が違うと言っては憎悪を露にしていた。庇う者も等しく疎まれ、非国民だとか人非人だとか散々に蔑まれた。

 その波は雪太の住む町にも到来した。貿易商の仕事に就いていた雪太は食い扶持を失った。髪が金色である、ただこの一点のみで。ある日、家に帰ってきた雪太は、刃物で刺され温度を無くした父と、嬲られたショックで虚に呟く母に出迎えられた。特に母は乱暴に扱われた形跡が随所に見られ、直視することができなかった。

「誰がこんなことをした!」

 泣きながら一人一人町の者を訪ねては訴える雪太のことを、誰もが無視した。ただ一人を除いては。

「ここに九条の者がやって来ていた」

 その者が言うには、九条財閥は国との提携から国粋主義の毛色が強いため、近隣に住む在日外国人の存在を許せなかったらしい。

 雪太は発狂した。九条。九条。あの娘の一族。

「じゃあ、陽子も…?」

 怒りのまま、雪太は裸足で寒空を駆け抜けた。桜並木も無視して、九条財閥のある方へ走った。

「陽子を呼べ!九条陽子を呼べ!」

 雪太は門番に向かって叫んだ。しかし、門番に袋叩きにされ、あえなく気絶してしまった。気がつくと、雪太は屋敷の中にいた。カーペットの感触が頬にある。見上げると、男がいた。

「君か。陽子が密会していた異国の者は」

 すかさず男の脚にしがみつき、雪太は呻いた。

「陽子はどこにいる」

「知るか」

 男は雪太を蹴飛ばし、脚を手で払った。

「迷惑な妹を持ったものだよ。貴様のような非国民とコソコソ会っては惚け、挙げ句恋文まで書く始末。だからまぁ、僕にしては珍しく苛立ってしまってね」

 ポケットから土に汚れた骨を取り出し、男は言った。

「犬畜生の餌にしてしまった」

 瞬間、雪太の中で何かが切れた。近くにあったランプを掴み、カーペットに向けて力一杯投げつけた。炎が燃え盛る。木造の屋敷が火に呑まれていく。

「死ね、死ね!死んじまえ!どいつもこいつも死にやがれ!」

 雪太は笑った。激しく邪に笑った。涙は炎で乾かした。

 いつしか、屋敷は木炭に変わっていた。黒い塵が宙を舞う。黒こげになりながら雪太は力なく笑い、仰向けに倒れた。雪が降る。驟雪が顔にかかる。

「スカッとした。スカッとしたってのに、」

 涙が焦土に溶ける。

「何で申し訳なくなってんだよ、オレ…」

 雪太は嗚咽を漏らした。同時に、命が消えるのを察した。

「こんな思いするぐらいなら、いっそ、全部憎めたら…」

 その一言を虚に呟き、雪太は息をしなくなった。

 数時間して、陽子が帰路に着いた。疲弊しきった顔で馬車から出ると、陽子は絶句した。家が全焼していたのだから。おぼつかない足取りで門のあった所を踏み越える。一歩、一歩と進む陽子の目に、雪太の姿が止まった。

 雪太を抱き上げ、髪に乗った雪を払う。だが、凍りついた一部の髪は白から戻らなかった。

 陽子はただ泣いた。泣き暮れた。世界の理不尽にやるせなさを抱き、悲しみに五臓六腑が裂かれる思いだった。

「もう何も見たくない、聞きたくない、感じたくない!けれど…」

 閉じられた雪太の瞼を開けようと、陽子は指を滑らせた。

「もっと、貴方を見ていたかった…そうすれば…」

 陽子は力なく木屑を手に取り、腹に突き刺した。何度も、何度も。血を流し、雪太に覆い被さりながら、陽子は呟いた。

「こんな思いを抱くなら、いっそ、全てを遠ざけられたら…」

 陽子は後悔を抱き、五つの感覚を失った。驟雪は二人を包み隠した。血も見えなくなるほどに。


「ずっと、見てたのか」

 呆然とヒュブリスが息を漏らす。そして、何かを決意した顔でカゲリを抱き締めた。刃がヒュブリスの胸を貫く。口から血が溢れ出す。

「これで近づけた」

 憑き物でも取れたかのように、柔らかな声でヒュブリスは言った。

「貴方を愛しています」

 カゲリはヒュブリスのメッシュを撫で、返事をした。

 二人はしばし見つめ合い、口づけした。やがて、二人の身体から力は抜け、重力のままに倒れた。それでも二人の唇は離れなかった。抱き締めた腕はほどかれなかった。真っ白な景色の中、ようやく二人は出会えた。白い粒が二つ、空に弾けた。曇天だった。

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