第四十九滴 恩返し

「一体どういう…」

 緋呂が言い終える前に、

「いいから早く!」

 オルキデアは九条邸に行くよう催促した。片腕が使いものにならない中、三銃士を相手にするのは分が悪すぎる。オルキデアが押し負けるのも時間の問題だった。オルキデア自身わかっていたはずだ。それでも活路を開こうとしてくれた。その想いを無駄にはできない。緋呂は即座に踵を返し、九条邸のある方角へ駆け抜けた。

 緋呂が白紙の空間から離れていくのを尻目に、オルキデアは笑みを浮かべた。

「少しはあなたの役に立てましたか?緋呂さん」


 真実を思い出したのは、三銃士の一人であるカゲリと邂逅した時だった。カゲリは口を利くことをせず、身振りと地面に書いた文字でカタストロフを伝えた──クウケンの通訳は必須だったが。聞くのと同時にエル城へ向かったクウケンとは異なり、オルキデアはカゲリから自分の全てを教えられた。

「何だ、その水晶は」

 カゲリが懐から透明の水晶を取り出した。水晶は宙に画面を映した。一匹の薄汚れた犬が、今にも消えそうな声で鳴いていた。

「意味わかんねぇぞオイ」

 オルキデアは声を荒げる。と、エル城の一角が唐突に消滅した。どうやらカタストロフ、世界の崩壊が起きようとしているのは本当らしい。

「教えろ。これで何を伝えてぇんだ?テメーは」

 カゲリは首を振り、再び地面に文字を書いた。頭を掻きつつ、オルキデアはカゲリの正面にしゃがんだ。乱れた文字はこう書かれていた。『現実を映す』と。

「何の」

 直後、手の平で地をならし、次の文字を綴った。

「『あなたの』…俺の現実、だと?どういうことだ」

 『あなたは生きる』

「カタストロフが起きたら全部消えるんだろ?テメーが言ったことだ」

 『あなたは違う』

「何で」

 『神の家族ではないから』

「わけわかんねぇ。要するにどういうこった」

 『あの犬が元のあなただから』

 オルキデアは息を呑んだ。どうせ敵の罠だ。そう考えるのは容易い。しかし、カタストロフは現に目の前で起きている。嘘と断定できない。なら、本当だというのか?自分が元はあの犬だったと。今見ている白い毛の犬が自分だと。

「だからどうしたってんだよ」

 狼狽する。情報が錯綜しすぎて処理できない。

「俺があの犬だったとして、それがカタストロフとか神とどう繋がるってんだよ!」

 怒鳴る。

 すると、激しい頭痛がオルキデアを襲った。

「テメー、何をした!」

 膝をついて頭を抱えるオルキデアの視線に、カゲリの文字が飛び込んだ。

 『記憶を見せる』

 頭蓋骨が割れそうなほどの痛みと同時に、決壊したダムから水が溢れ出るように、魂に刻まれた記憶が一斉にオルキデアの脳内に飛びかかってきた。

 オルキデアはかつて、名も無き犬だった。種類はわからない。判別できないほど病気で痩せ細り、毛は散り散りになり、醜かった。路上にいても誰も気にとめず、目が合う度に侮蔑の視線を向けられた。犬は恨みも憎みもせず、ただ寂しさを募らせた。自分の存在を証明できない孤独感は日に日に増していった。

 そんな犬に手を伸ばそうとした人間がただ一人いた。人間は自分を『緋呂』と名乗った。緋呂は犬の居座る場所を通る度、シールが貼られて間もない缶詰を開けて、犬の傍に置いた。家に連れようとして失敗した次の日は、犬の身体を綺麗に洗った。埃一つ残さず洗われた犬は見違えるほど清潔な見た目を得た。

 それでも飼うことは許されなかった。犬が重い病気を患っていたからだ。人々が避けたのも、緋呂の両親が飼うことを認めなかったのも、きっと一番大きな理由はそれだったのだろう。だから憎悪を選ばなかった、のかもしれない。けれど、犬は一つだけ求めた。死ぬ時は誰かが隣にいてほしい。

 緋呂はそうしてくれた。涙で顔を崩しながら、謝りながら、墓まで作ってくれた。生物は肉体が死んでも、ほんの数秒だけ意識が残されると言う。犬はその数秒で願った。この人の傍にいたい。

「…で、俺は緋呂さんの妹、神様の造った世界に来ちまったわけか。それも、前世の記憶を失って」

 噛みしめるようにオルキデアは呟く。一筋の粒が頬を流れていた。

「何の因果かねぇ」

 気づけば、周りは白一色になっていた。エル城は剥き出しの姿となり、向こうには緋呂達が見えた。

 急ぎ、カゲリは次の文字を綴った。

 『みんな神のものになる』

「でも俺は違うんだろ?なら、ぶん取り返してやるよ」

 カゲリは頷く。

 『やってほしい』

「何を…なんて、聞くまでもねぇか」

 傷だらけの身体でオルキデアは立ち上がる。不思議と、痛みは感じなかった。世界は白くなっていく。消えゆくカゲリの身体をすり抜け、オルキデアは言った。

「恩返し、しねぇとな」

 残された胸から上を振り向かせ、カゲリはオルキデアを見つめ返した。その様子はどこか満足げだった。


 三銃士の攻撃がオルキデアを襲う。剣が弾き飛ばされる。凍傷した腕から血が噴き出る。黒ずんだ液体で白紙の地面が汚れる。足をふらつかせながらも、オルキデアは不敵に笑った。

「散々俺たちを苦しめてきたテメーらはよ、今じゃ神様のオモチャってわけだ」

 関節を無理矢理に曲げ、握り拳を作る。

「でも、色々やらかしといて、自分達は神様のお人形になってハイ終わりなんてよ。そんなの納得できねぇ」

 ヒュブリスを庇おうとしたカゲリごと殴り飛ばす。その後ろからアドラが跳び上がる。

「テメーら自身の意志で土下座させてやる。だから目ェ覚ましやがれ!」

 オルキデアの拳がアドラの胸を抉る。アドラの拳がオルキデアの顔を砕く。互いが口から血を吐き出し、背後に倒れた。すかさず起きようと、オルキデアの脳は腕に指令を送る。だが、腕は動かない。呼吸が浅くなる。頭の中がぼやける。

 立てよ。ぶん取り返してやるんだろ。姫を守るのが騎士だろ。あの時傍にいてくれた、あの人に応えるんだろ。立てよ。立ってくれよ。

 霞む景色にヒュブリスの氷柱が映る。刺さる。

「姫、ごめん」

 そんな弱音が脳裏をよぎった。その時だった。氷柱が欠片となって霧散した。何が起きた?意識が朦朧とする中、オルキデアの肩に手が触れるのを感じた。そして声が聞こえた。

「目覚めたぞ、少年」

 男の声だった。その姿はどこか、緋呂を彷彿とさせた。

「緋呂…さん?」

「さあな」

 男はそう言った後、オルキデアの前に立って拳を構えた。

「来い。三銃士が一人、メイデン王国第一王子、荼毘のアドラが相手になろう」

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