第四十八滴 兄として、妹として

 もしも宇宙すら無くなった時、そこには何があるのだろう。無ではなく、多分キャンパスだ。いま緋呂が見ている景色のように、あらゆる原子が自分という絵筆を加えていない状態、白紙がそこには広がっていた。

「叱る?どうして?」

 瑞乃が焔の拳をクロスカリバーに押し当てながら、無邪気に尋ねる。熱で肌が焼けそうになる。力が抜けてしまわないように、緋呂は指先にまで神経を研ぎ澄ませながら答えた。

「悪いことをしたからだよ」

 クロスカリバーが光を強める。コクーンセイバーの供給には頼らずに。


 瑞乃がいる場所へ赴く際、緋呂は体内のヴァキュアスに告げた。

「コクーンセイバーの力は使わない」

「敢えて聞かせて貰おうか、其の故」

 ヴァキュアスの問いの後、数刻の間を挟んで緋呂は答えた。

「誰かの忘れた記憶を勝手に受け取ることはしたくない。それに、この戦いは瑞乃の兄として向き合いたい。でないと、きっと意味が無いから」


 クロスカリバーの力を借りて踏ん張る緋呂に対し、瑞乃は焔を大きくした。

「悪いのは皆でしょ?お兄ちゃんを虐めて、誰も助けてくれなくて。消えちゃえばいいんだよ、そんな人達!」

 焔は威力を高め、蒼く変色する。押し込まれた緋呂は片膝をついてどうにか耐えた。瑞乃の右目から、蒼い火の粉が滴り落ちる。

「なのにお兄ちゃんは守ろうっていうの?色んなもの失って。今だってそう。私が戻しても戻しても、そうやって自分を犠牲にしてまで守ろうとするじゃん。嫌だよ私、お兄ちゃんが消えちゃうの」

 声を震わせる瑞乃の左腕を剣で押しながら、オルキデアが激昂した。

「てめぇどの面下げてンな甘ったれたこと言ってやがんだ!ワガママも大概にしろよ!」

 すると、瑞乃は癇癪を起こした。冷気がオルキデアの肌を蝕む。

「何でここにいるの?消えてよ!」

 剣を持つ腕が凍てつく。破片が頬を切る。それでもオルキデアは厭わず叫ぶ。

「消えてやるよ、姫を返したらな!」

 今にも砕けそうなオルキデアの腕を見て、緋呂は咄嗟にクロスカリバーを引き、よろめく瑞乃を尻目にオルキデアを運んで遠ざかった。

「ここで休んでいろ」

 白紙と世界の狭間までたどり着いた緋呂は、歩道の上にオルキデアを座らせた。

「すみません、あなたの力になれないで」

 喘ぎながらオルキデアは目を伏せた。氷の繋ぎ目が壊死しかけている。緋呂はクロスカリバーから炎を出し、腕の氷を溶かすことに努めた。

「来てくれただけで嬉しいよ。だから、」

 氷を溶かし終え、緋呂はシャツを脱いでオルキデアの腕に巻く。そしてクロスカリバーを掴み、立ち上がった。温度と痛覚を失くした身体で。

「あとは任せろ」

 全速力で緋呂は瑞乃のいる所に戻った。衝撃波が白紙の空間を舞う。顔を合わせるや否や、緋呂は詠唱を呟きクロスカリバーを振り下ろした。焔と氷の手で白刃取りされる。が、尚もクロスカリバーにかかる力はとどまらず、今度は瑞乃が片膝をついた。身体の制御を失った緋呂は、際限なく全身の力を引き出した。

「やめて、お兄ちゃん。本当に死んじゃう!」

「だったら世界を元に戻せ。取り上げたものを全部返すんだ」

 緋呂が呼びかけると、瑞乃は静かに俯いた。

「わかった」

 焔と氷が勢いを止める。直後、

「じゃあ、返すね」

 と、瑞乃の背中を破って人の影が三つ現れた。影は形を変え、色を持ち始めた。一人は氷のメッシュが入った金髪の男、一人は白無垢を纏った女、そしてもう一人は緋呂の写し身。女に面識は無かったものの、緋呂は三人が誰なのか察した。

「三銃士…!」

 呆然とする緋呂を三銃士が囲むのを確認して、瑞乃はクロスカリバーをはね除けた。刹那、三銃士は緋呂に向かって無機的に攻撃を仕掛けた。世界には依然、白紙が敢然と立ち広がっている。

「アドラ、俺がわからないのか!」

 三人の攻撃を寸前で受け止め続けながら、緋呂はアドラに呼びかける。しかし、攻撃を行うアドラの瞳に生気は宿っていなかった。まるで、廃棄された人形のように。

 カゲリの千里眼と圧倒的な予測力で緋呂の動きは先読みされ、ヒュブリスの氷で足を止められる。動けなくなったところをアドラの拳が襲う。重く鋭い、しかし冷たい殴打であった。口から血が流れる。

「約束が違うぞ、瑞乃!」

 緋呂が怒鳴ると瑞乃は肩を震わせ、今にも消えそうな声で言った。

「わかって、お兄ちゃん。これはお兄ちゃんのためなの。ちょっと痛いけど我慢してね。私がお兄ちゃんに幸せをあげるから」

 瑞乃は背中に穴だらけの白い翼を生やし、宙に浮かんだ。

「此のままでは被害が拡大する。白紙化は免れんぞ」

 ヴァキュアスが焦燥を露にしながら緋呂に訴える。

「ダメだ、それでもコクーンセイバーは使わない」

「被害なら総て終えた後、神に戻して貰えば良い。記憶も燃焼すれば覗いた事にはならぬだろう」

「そんなわけないだろ!」

 緋呂は激情を剥き出しにし、クロスカリバーから深紅の炎を噴き上がらせた。三銃士が距離をとり、氷が溶ける。

「いくら元通りにしたって、起きたことが無くなるわけじゃないんだよ。やり直しなんて無い、俺達は進むだけだ」

 鎧に血脈のような刻印が走る。緋呂の身体から味覚が、続けて喉の渇きが失われる。

「それと、記憶は人の存在証明だ。その人だけのものだ。他人の生き様をダシにして、妹に胸を張れるかよ!」

 咆哮と共に、緋呂は瑞乃のいる高度数百メートルまで跳び上がった。鎧の背部からバーナーのような炎が噴き出し、緋呂を超高速で瑞乃の目の前まで運んだ。

 同じ高さにたどり着くと同時に、緋呂は瑞乃めがけてクロスカリバーを振った。瑞乃はそれを鉄の巨腕で受け止める。剣と巨腕のぶつかり合いが空中で幾度も繰り広げられる。

「どうして邪魔するの?そんなに私のことが嫌いなの?」

「嫌いとかじゃない。妹が悪いことしていたら、邪魔するのがお兄ちゃんの役目なんだよ!」

「嘘!だって殺そうとしているじゃん、そんな剣で!」

 泣き叫ぶ瑞乃に緋呂は言葉を詰まらせた。しかし、すぐさま、

「瑞乃がどう思おうと構わない。それでも俺は止めてやる。何故なら俺は九条緋呂、九条瑞乃の兄だからな!」

 と返した。

「九条…そっか」

 拳を止め、瑞乃は呟く。そして両腕を砲身に変え、緋呂を叩き落とした。

「お兄ちゃんを縛るもの、全部壊してやる!」

 遥か空の彼方、瑞乃は九条邸に向かって飛び去った。追いかけようと起き上がる緋呂の目の前には、三銃士が並び立っていた。身体を動かそうとするが、言うことを聞かない。

 手元に目を向けると、手首があらぬ方向に曲がっていた。制限を失い、痛覚を失った身体はもう、崩壊の臨界点を越えていたのだ。

 氷の結晶が辺りを舞う。吸えば死ぬ。呼吸を止めようにも、緋呂の身体は無自覚の崩壊に喘いでいた。

「打つ手、無しか」

 ヴァキュアスが諦観を口にする。だが、緋呂は瞳から生気を失うことなく、脚に力を入れようと努めた。無理矢理息を止め、歯を食い縛り、クロスカリバーを支えに立とうとした。しかし、無情にもアドラがクロスカリバーを奪い取り、緋呂を刺そうと刃を突き出した。

 その時である。クロスカリバーを持つアドラの腕が撥ね飛ばされた。アドラの腕から大量の血が流れ出す。緋呂は彼が現れたことに驚きを隠せなかった。

「オルキデア!」

 オルキデアは凍傷を起こした片腕を垂れ下げ、緋呂の前に立つ。

「ごめんなさい。約束、破りました」

 息も絶え絶えに言うオルキデアを見て、緋呂は悲痛な声を上げた。

「どうして来た」

 緋呂とは対照的に、オルキデアは笑みを浮かべる。

「あの時の恩返し、まだですから」

 迫り来る三銃士を払いのけ、オルキデアは言った。その言葉は緋呂の耳に寸分違わず、はっきり聞こえた。

「僕を拾おうとしてくれたあの日のこと、ちゃんとお礼したいから」

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