第四十七滴 Sight of Her─独りの神、二人の騎士(エトランゼ)─
神は現実(このよ)に舞い降りた。架空(あのよ)の境を飛び越えて。
「全部消すんだ、お兄ちゃんのために」
そう言って、神は交差点の中央で手を空にかざした。しかし、何も起こらない。欠けなかった。なぜ、と神は戸惑った。今の自分に、この世もあの世も関係ないはずなのに。太陽の光が掌に遮られ、顔に影がかかる。
かざした手を胸に当て、神は沈黙した。そして悟った。
「邪魔しないでよ、ローザちゃん」
神は地上に降り立つために、イデアコズモスの肉体、つまりローザと自身を融合させた。だから機能を停止してしまった身体でも動ける。だが、移植手術において拒絶反応が発生するように、神とローザの意識は拮抗していた。
「これから世界を壊さなくちゃいけないの。お兄ちゃんが幸せになるために」
ローザの存在を消そうにも、彼女が神の宿主である以上不可能な事だった。だから神は自らを眠らせた。
魂は生きる世界、生きた世界に強く惹かれる。地縛霊などはその典型だが、神が行おうとしたのはまさにこれだった。つまり、確実に身体の所有権を掴めるような圧倒的有利を得たうえで、互いに一度スタートラインに戻るようにしたのだ。
案の定、目論見は成功した。神は清々する思いであった。煩わしい胸のつかえが取れ、早速足元に広がる景色を消した。大地や海の跡一つ残らない空白が、辺り一帯を埋め尽くした。遠くで街と白紙の境界線が見える。断面は無い。中途半端に千切られたページのようだった。
遥か彼方で、マスコミや野次馬が押し寄せる。誰もが世界の終わりを想起した。神は愉快そうに呟く。
「罰だよ、今までの分の」
神の痛みが伝わってきた。眠りながらでもわかる。濁った感覚が浸透していく。神の持つ生命の記憶が滝のように流れ込んだ。
九条瑞乃には兄がいる。九条緋呂。瑞乃の生きる意味。緋呂は身体こそさほど強くなかったものの、幼い頃から博学才知を絵に描いたような秀才ぶりを見せ、容姿も端麗であったことから誰もがその存在を羨み、嫉妬した。
だが、瑞乃が何よりも惹かれたのは緋呂の心だった。優しくて、頼もしくて、何より理不尽を許さない性根。捨て犬を最期まで育てようと必死に両親に訴えかけた日のことは決して忘れない。財閥のトップという厳格さを求められる立場にありながら、誰も見捨てないことを理想に掲げていた。周囲の大人は嫉妬も相まって、それを理想論だと吐き捨てた。けれど、瑞乃にとっては太陽よりも明るい光に感じられたのだ。
瑞乃は光に魅せられていった。いや、元より魅せられていた。祖父に絵本をねだったことがあるが、選んだ理由は『主人公が兄に似ていたから』である。簡素な挿し絵の騎士を見る度、その顔に緋呂の相貌を重ねた。物心ついた時にはもう、瑞乃の理想の男性は緋呂と決まって揺るぎなかった。
ゆえに周りを許せなかった。緋呂の能力を妬む同世代の人間、その聡さを鬱陶しく思う大人達。誰も口にしなかったが、雰囲気でわかる。緋呂だって何もしないで得たわけじゃない。当然の話なのに、誰も理解しようとしないで遠ざけた。いつしか、緋呂の居場所は家の前の庭だけになっていた。
「私、この世界が好きだよ」
嘘偽りなど無い。何故なら、瑞乃にとっての世界は胡蝶蘭や薔薇が咲き乱れ、緋呂のいるあの庭だから。緋呂を傷つける森羅万象など、世界の内にも入らない。だからイデアコズモスを消した。深層の理想を描いたはずなのに、どうして緋呂を傷つけた?許せない。何を許せない?それは──
白紙の空間を駆け抜ける二つの影が視界に入った。神は二人を見下ろしながら右手に焔を、左手に氷を纏わせた。背面に腕を伸ばし、両手を合わせる。勢いよくぶつけられた掌から、激しい水蒸気爆発が起こる。爆風に身を任せ、神は二人の目の前まで加速する。そして懐に潜り込み、緋呂には焔を、オルキデアには氷を叩き込もうと拳をねじ込んだ。だが、すんでのところで剣に止められる。火の粉が舞い、結晶が飛び散る。
「来たんだね、お兄ちゃん。世界の終わりを見に」
「お前を叱りにだよ、瑞乃」
「姫は返してもらうぞ、神よ!」
世界という天秤の上で、神と騎士(エトランゼ)が交わった。『世界』を懸けて。
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