第四十六滴 疾走せよ、守護の血

 白紙となったイデアコズモスから飛び立とうとした緋呂を、白い髪の青年が呼び止めた。

「誰だ」

 緋呂が問いかける。どうして見ず知らずの人間が自分の名前を知っている?神、いや、瑞乃でもないのに。

 青年は興奮混じりに答えた。

「オルキデアです」

「どうして俺の名前を?」

「あなたは僕らの英雄ですから」

 自分達がイデアコズモスから離れたことと、ローザの身体のことを思い出した。出会った頃は当時の瑞乃と瓜二つだった。それが一日二日空けた程度で、あそこまで成長していた。きっとイデアコズモスでは相当な時間が流れたのだ。緋呂が考えていたよりもずっと多くの時が刻まれたのだろう。

「其れはエルにも同じ事が言える」

 兜から、ヴァキュアスが脳内に語りかけてきた。

「我の居ぬ間に、ヒュブリスが実権を握ったようだ」

 臨時政権かと思っていたが、ローザの身体を見ればそうでもないと考えざるを得ない。つまり、十年間もヒュブリスは世界への憎しみをこんな形で実現しようとしていたことになる。何故そこまで世界を憎んだ?

「解らなくも無いが、今は貴公の妹を止める事に専念せよ」

 自然に馴染みすぎて気づくのが遅くなった。何故ヴァキュアスが生き返っている?それに、どうしてこちらの思考がわかる?

「其の事もだ。貴公と我は一心同体と化したとだけ納得しておけば良い。兎に角、急ぐべし」

 緋呂は気を取り直し、オルキデアの傍に寄った。

「捕まっていろ、ちょっと飛ぶから」

「飛ぶって一体──」

 オルキデアが聞き終わる前に、緋呂は光の道に飛び乗った。光の道は目にも止まらぬ速さで、緋呂とオルキデアを元の世界へと導く。

 終着点の白い光に包まれた後、装置から緋呂とオルキデアが飛び出す。緋呂は双剣と鎧を納め、周りに目を向ける。接続機器だけが目の前に落ちており、瑞乃の遺体はすっかり消えていた。装置を取り囲むガラスケースにも跡は何も残されていない。

「我々と同じ状態に在るやもしれぬ」

 ヴァキュアスが唸る。それはつまり、瑞乃がこの世界でもカタストロフができることを意味していた。違う世界のもの同士は干渉できないが、裏を返せば、同じ世界にいれば干渉できるのだから。

「姫を助けに行かねば」

 オルキデアはガラスケースのドアノブに手をかけた。それを見て、緋呂はオルキデアの腕を掴み上げた。

「どうしたのです、早く行かないと姫が!」

「落ち着け、オルキデア。おかしいと思わないか?」

「何が」

 緋呂は固唾を呑み、慎重に次の言葉を吐いた。

「瑞乃はやろうと思えばいくらでもカタストロフができるはずだ。神様だからな。それに、瑞乃自身はお前たち側の人間じゃないから、同じ事がここでできてもおかしくないはずなんだ。でもそんな様子は微塵も感じられない。何かあると考えられないか?」

 九条正義の言うことを真と捉えたうえで話を進めるのは些か癪だが、実際に起きたことを否定しても仕方ない。

「とはいえ、何もしないわけにはいかないでしょう?」

 オルキデアが焦燥を露にする。

 姫、というと恐らくローザの部下だろう。オルキデアにしてみれば、その姫がよくわからない誰かに乗っ取られて暴れさせられているようなものだろう。はやる気持ちはわかる。だが、焦って全滅するわけにはいかない。この青年が唯一生き残っていたことには何か意味があるはずなのだから。

「わかっている。だから、」

 緋呂は手を離し、オルキデアの前に立った。

「俺がケリをつける」

 ガラスケースから出る緋呂の背中から、オルキデアが問う。

「僕はどうすれば…」

「そこでローザを迎えろ」

 とだけ言い、緋呂は大股で地下室の出入口へ向かった。だが、少しして、オルキデアは小走りで追いついて来た。緋呂は立ち止まり、咎めようとした。しかし、その前にオルキデアが口を開いた。

「やはりできません。僕はあなたに憧れて騎士になった。姫を守りたくてここまで追いかけてきた。いまさら待てませんよ」

 必死に訴えかけるオルキデアの語気に、緋呂は自分を重ねた。ああ、この男にも血が流れているんだ。誰かを守りたいという血が。

 緋呂は微笑み、オルキデアに振り向いた。それから、胸に拳を乗せて言った。

「血を流す覚悟は出来たか?」

 オルキデアは毅然と答えた。

「ありますよ。あの頃からずっと、ね」

 二人はひとしきり笑い合った後、地下室の暗がりを駆け抜けた。コンクリートの階段を昇り、天井の取っ手に手をかける。こちら側からなら、黒電話を使わなくても出入りはできるらしい。天井の取っ手を見て、緋呂はそのことを察した。

 そして緋呂は取っ手を引っ張り、黒電話の前に戻ってきた。大広間を見渡す。何の異常も無い。警察云々も春島達が解決してくれたようだ。頼もしい限りである。

 と、緋呂が感心していると春島が息を荒くして、

「緋呂様!」

 二階の螺旋階段を降りてきた。緋呂の前で屈み、肩で息をしながら春島は聞いた。

「芽吹様とアドラ様はどこに?それと、そちらの白髪の青年はどちら様でございますか?」

「僕はオルキデアです」

 言えない。二人ともカタストロフに巻き込まれて今は消えてしまったなんて。緋呂は暫しの沈黙の後、ようやく一つだけ言葉を出せた。

「後で話す」

 春島は何かを察した顔で、それ以上の追及はしなかった。代わりに、普段の冷静沈着な様子からは想像もつかないほど慌てふためきながら言った。

「それより大変です。先ほど、日本列島の半分が消滅したとのニュースが入ってきまして、故郷が消えたと夏原は嘆いておりまして、とにかく危険なのです!」

 オルキデアは春島の話を聞くや否や、

「姫!」

 と反応した。緋呂は、

「ヴァキュアス、どこにいるかわかるか?」

 と脳内で話しかけ、ヴァキュアスは、

「動きながら伝えよう」

 と答えた。シャンデリアが揺れる。おそらく近い。

 二人は心を決め、互いに顔を合わせて頷いた。そして走り出した。流れる血のままに。

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