第四十五滴 それでも騎士は血を流す
「カタストロフ、だと?」
アドラは聞き返した。生命の記憶を持つアドラは、イデアコズモスの全てを知っていると言っても過言ではない。現に、イデアコズモスが瑞乃の思念を基に反映された死後の世界であることを知るのは、元の世界から来た緋呂や正義を除けば、アドラただ一人のみである。そんな男でさえ知らない単語をクウケンが発した。緋呂の首筋を冷や汗が流れる。
突如、部屋に音が鳴り響いた。ビルを解体する時に出るような轟音。緋呂は頭上に空洞が出来ていることに気づいた。穴の先から、ヒュブリスの嘲笑が聞こえる。
「やっちまったなぁテメーら!これで全部ぶっ壊れる!カタストロフの始まりだ!」
高笑いは徐々に薄れ、消えた。
「何が起きているんだ」
緋呂がクウケンに尋ねると、
「奴の策略だったのです。奴は常に世界を憎み、破滅を望んだ。理由は存じませんが、白無垢の者からはそう聞き申しました」
誰のことだろうか。確かに知っていたはずなのに、記憶に靄がかかる。クロスカリバーが喰ったのだろう。重要なことだろうに、どうして喰ってしまったのか。緋呂は自分の無意識の選択を悔やんだ。
「お兄ちゃんは悪くないよ。選んだのは私だから」
声のする方を向くと、ローザが宙に浮いていた。ローザの足元は崩れ去り、遥かな暗闇へ落ちていく。アドラは妹を訝しげに睨んだ。
「神…ミズノか」
緋呂の心臓が跳ねた。おもむろに近づく。背後から足場の崩れる音がした。
「本当に、瑞乃なのか?」
緋呂が問いかけると、瑞乃は微笑みながら頷いた。喜びたかった。しかし、カタストロフという単語と、今まさに起きている怪奇現象が緋呂の心をとらえて離さない。
「教えてくれ。カタストロフって何だ?」
すると瑞乃は現在進行形で穴だらけになっているエル城の外壁を指さし、まるで絵本の内容を説明するかのように揚々と答えた。
「血の巫女は血を通して世界の記憶を受け継いでいくっていうのは聞いたよね?あれがローザちゃん、私の『役』に渡ると、私は完全に役を降りられるの。何でもありになれる。で、私がやりたかったのがカタストロフ、つまり…やり直し」
悪寒が走った。あんなに優しい妹が、決してするはずのない表情を目の前でしていた。全てを諦めたかのような、生物の生理機能を全て止めたかのような、冷たく虚ろな顔だった。
「それを何故ヒュブリスは知っていた?」
「教えたからだよ。どうしてもやってほしかったの。アドラが何故かあっちに行っちゃったから。お兄ちゃんだけのはずだったのに」
森の中、正義に撃たれたあの日のことを思い出した。意識を取り戻した直後、ローザが輝き、緋呂とアドラを元の世界へ飛ばした。
「瑞乃がやったのか、あれ」
「お兄ちゃんを飛ばしたはずだったんだけどね」
いつか、アドラが言っていた。緋呂とアドラは同じ人間なのだと。あの言葉が何か関係しているのだろうか。
「関係ないよ。関係ない。あの人がお兄ちゃんなわけない。お兄ちゃんは一人だけだもん」
突然、瑞乃は頭を抱えて取り乱した。呼応するように、エル城の崩壊がますます進む。
「ミズノ、お前は俺を造っただろう。兄の代わりとして。今になって否定するというのか?ふざけるな!俺もローザも、お前の人形ではない!」
アドラの怒号が色を失った空に吸い込まれる。
「うるさい、消えちゃえ!」
瑞乃がアドラに手を伸ばすと、アドラの身体が砂のように崩れ去った。
「神よ、鎮まれ!」
クウケンが瑞乃に飛びかかる。しかし、その拳は瑞乃の身体に触れることなく消えた。そして遂に、エル城が跡形も残さず無くなった。元から世界に存在しなかったかのように。
緋呂は自らを取り囲む世界を見て絶句した。何も無い。バグを起こした液晶画面か、あるいはブレーカーの落ちた地下室か。嫌でもそれらを連想させてしまうほど、多くのものが消えていた。
「やめてくれ、瑞乃」
こんな凄惨な出来事を起こしているのが自分の妹だと思うと、さすがに声が震える。
「理由はわからない。やり直しがどういうことかもわからない。でも、これはさすがにおかしいだろ」
緋呂は失われた景色を指さし訴えた。
正義によれば、イデアコズモスの住人は全員、先祖の魂が形を持った姿である。いわば、他人としてもう一度人生を送っているということになるのではないだろうか。そんな人々が消えてしまうのと、元の世界で誰かが死ぬのと、一体どう違うのだろうか。
「どうして?お兄ちゃん、嫌いだったでしょ?九条家のこと」
瑞乃は顔をひきつらせた。
「それに皆、死んだ人じゃん。何回でもやり直せるよ」
「だから何回死んでもいいっていうのか?」
緋呂のこめかみに力が入る。
「瑞乃だってわかるはずだろ、そのつらさは。何でそんな酷いことを言うんだ」
すると、瑞乃は狼狽し始めた。
「お兄ちゃんこそ、何でそんな酷いこと言うの?私、死んでない。ここにいるよ?」
四方八方から崩壊する音が聞こえる。物ではなく、概念的な何かが潰されていく音だ。
「せっかくお兄ちゃんを呼べたのに。そのためにローザちゃんをギリギリまで追い込ませたのに。あんまりだよ、こんなの」
泣きじゃくる瑞乃に向かって芽吹が近づき、瑞乃の頬にビンタした。
「いい加減にしてよ!ワケわかんないことばっかでアレだけどさ、要は九条君に会いたかったんでしょ?そのために皆に迷惑かけて、でもって、都合が悪くなったからこんなことしてるんでしょ?自分勝手すぎるよ、神様のくせに」
「おい芽吹、離れろ!」
緋呂が怒鳴ると、芽吹は振り向いて、
「九条君も九条君だよ!妹にちゃんと教えなきゃダメでしょ?『人に迷惑かけちゃいけない』ってさ!」
と怒鳴り返した。
瑞乃は俯いて何か呟いた。緋呂が耳をそばだてると、コクーンセイバーが声を拾った。
「私の方がお兄ちゃんのこと知っているのに。偉そうに。もういい。消そう、全部」
緋呂は双剣を取り出し、全速力で地面を蹴った。
「芽吹、危ない!」
しかし、あと一歩遅かった。芽吹は砂と化し、世界は完全に消え去り、白紙と化した。真っ白な空間にただ二人、緋呂と瑞乃だけが立っていた。
瑞乃は清々した顔で、
「最初からこうすればよかった」
と言った。
「皆、消えてしまったのか?」
緋呂が問う。
「うん。嫌な人達だったもん。皆、お兄ちゃんのこといじめてさ。あんな風に造った覚え無いのに」
「当然だろ。みんな生きていたんだから」
沈黙。
やっと瑞乃が口を開いた。
「だから来ないでって言ったのに。カゲリの記憶、消しといたのに。実はお兄ちゃんだけじゃないんだよ、消す記憶を選ぶ権利があるの。知ってた?」
緋呂は俯いたまま、首を振る。
「あの時、私が目覚められるのは命の危機だけだった。だからヒュブリスにローザちゃんを痛めつけるよう手伝ってもらったの」
「世界を憎む気持ちを利用してか」
「ヒュブリスもスッキリしたと思うよ、本当に何もかも消えちゃったんだから」
にべもなく言う瑞乃に対し、緋呂は疑問をぶつけた。
「これからどうするんだ?やり直しってやつをするのか?」
「それはもういいかな。今度はあっちの世界でカタストロフをするつもり。せっかく剣が両方あるしね」
瑞乃が緋呂の胸に手を乗せる直前、緋呂は咄嗟に瑞乃の両肩を掴み、涙ながらに言った。
「なあ、瑞乃。何が瑞乃をそんな風に変えたんだ?何で全部壊したがるんだ?何もない世界なんて虚しいだけだろ」
瑞乃は緋呂の涙を拭い、答えた。
「そんなことないよ。私、この世界を見ていて気づいたの。この世もあの世も、世界ってお兄ちゃんの敵ばっかりするんだなって。じゃあ創り直すしかないねって。お兄ちゃんが幸せになれる世界にしなきゃって思ったの」
呆然とする緋呂の顔を見つめ、瑞乃は続けた。
「最初はそう思ったけど、今やっとわかった。私、お兄ちゃんがいればいいや。だからいらない。この世も、あの世も、全部失ったっていい。お兄ちゃんが私の全部なの。生まれた日から、ずっと」
緋呂の頬に手を当て、瑞乃は唇を重ね合わせた。時間も無い空間で、永遠にも思えるほど長い接吻の後、瑞乃は緋呂の胸に手を乗せた。勝手に双剣が飛び出し、光を放つ。光は緋呂の遥か頭上に道を作った。瑞乃は踵を返して緋呂に、
「行ってくるね、お兄ちゃん。世界を壊しに」
と言い残し、光の通路に飛び乗り、真っ白な空間から消え去った。
一瞬、脳の動きが止まった。生前の瑞乃とはまるっきり正反対に見えた。いや、正反対などではないのだろう。あれが瑞乃の本心なのだ。自分だって瑞乃が世界の全てだった。同じことだ。少し、至った道が異なっただけだ。
なら、やるべきことは一つだ。
「叱りに行かないとな」
緋呂は双剣に手を伸ばした。
「俺に流れている血はもう、とっくに覚悟が出来ているぞ!お前達はどうなんだ!生死の境を失くせるぐらい強いなら、俺に応えてみせろ!」
すると、双剣が緋呂の手元に降りてきた。それから双剣は深紅の鎧を作った。緋呂のためにあしらえた一品。ヴァキュアスを彷彿とさせる形状に、緋呂は笑みがこぼれた。思えば、イデアコズモスにはたくさんの因縁があった。
鎧を纏い、最後に兜を被った。直後、緋呂の耳に声が届いた。
「共に行かん、流血騎」
「ああ。行こう、ヴァキュアス。世界を守りに」
そして緋呂が真っ白な空間から飛び立とうとしたその時、
「待ってください!」
と、背後で青年の声がした。
「私も行かせてください。メシア、いえ、ヒロさん」
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