第四十二滴 因縁の決着

 薄暗い六面体の空間の中、コクーンセイバーは細長い刀身を紺碧に輝かせた。まるで、曇天の隙間から垣間見える青空のように。緋呂は冴える切っ先を正義に向け、一歩、また一歩と近づく。

「君には分不相応だね、その剣」

 正義の言葉はもはや緋呂の耳に届かない。そんなことは緋呂自身がとっくに気づいている。尚もヴァキュアスにコクーンセイバーを託されたのだ。これに応えなければ甲斐がない。自分として生きる甲斐が。

 足を止めずに進む緋呂を見て、正義はクロスカリバーを手離した。

「やめよう。無駄な争いだ。だって僕らの持っている剣はどっちもこの世界のものじゃない。決着がつかないよ」

「お前はさっき、クロスカリバーを俺に向けた。それが答えだろ」

 正義は自分で口走った。イデアコズモスに住むのはただの死者ではなく、九条家の者の魂であると。オーバーロードの力の塊・クロスカリバーを宿すなら誰でもよかったと。あの剣を宿すにはアドラがしたように、つまり刺さなければならない。生命に干渉しなければ力が譲渡されない。裏を返せば、九条家の者なら誰でも殺せる形に変化したのがクロスカリバーなのだ。

「とんでもない悪食だな」

 皮肉混じりに小声で笑った。そして、詠唱を呟く。

「世に刻むは厚き雲の切れ間、世に示すは偽らざる己。恐るることなかれ。憚ることなかれ。此の刃、誰が為に握らん。数多の涙も、翅育む繭となろう。刻雲世刃─コクーンセイバー─の名の下に」

 細長い刀身は繭を纏い、分厚い刃に変わった。かと思いきや、繭にヒビが入り、纏った刃が割れた。欠片の中から現れたのは、透き通る空色をした剣だった。刀身の中で小さな光が煌めく。

 異様な光景を前にしてのことか、正義は激昂した。

「気に食わないなぁ、緋呂!」

 クロスカリバーを取り、緋呂に向かって振り下ろす。だが、緋呂は軽くいなした。

 コクーンセイバーの光が強まる。今度はこちらの番。緋呂は正義の四肢に剣を叩き込んだ。出血。筋を切られた正義の身体は、立つことすらままならない。クロスカリバーが手から滑り落ちる。

「何故だ、どうして…僕が勝っていたのに…」

 緋呂はクロスカリバーを拾い上げ、コクーンセイバーを正義の眉間に突き立てた。

「俺が薔薇の騎士だから、かもな」

 それから緋呂は右手に持ったクロスカリバーを一瞥して、

「あと、失う重みを知らない奴には負けたくないんだよ」

 と、すっかり余裕を失くした正義の顔を見つめ付け加えた。

「今から警察を呼ぶ。それで終わりにする」

 限りなく冷徹に、無感情に緋呂は言った。口振りに相反して、正義を見る目には力が入った。

「春島」

 緋呂が呼ぶと、春島はポケットからスマートフォンを取り出し電話を繋いだ。警察が来たら驚くだろう。まさか七年前の行方不明者が今になって血まみれの姿で現れ、自分達がそいつを引き渡されることになろうとは。

 すると、正義は不敵に微笑んだ。

「無駄だよ。僕を訴える材料が無い。逆にピンチなのは君たちじゃないか?血まみれの剣、血まみれの男。どう見たって悪いのは君たちだ」

「『計画』のこと、話したらどうなるだろうな?」

 緋呂の頭には、一つの情報が流れ込んでいた。コクーンセイバーの与えた記憶の断片。正義は計画の中からたった一つだけ、忘れさせようとしたものがあった。その情報だけで、正義は妄言を吐く珍妙な老人から殺人鬼になり変わる。

「七年前、お前は計画を進めるために一人の子供を犠牲にする必要があった。新鮮な脳が不可欠だから。──あれは幸運なんかじゃないんだろ?当時の部下に言ったんだよな、『瑞乃を殺せ』って」

 正義の目の色が変わった。

「何故それを知っている…あいつだけだ、聞いたことがあるのは」

 しかし正義はコクーンセイバーに目を向け、己の中で得心したような顔つきで、今度は血を垂らしながら高笑いした。

「一体誰が信じるんだい、その剣で記憶を得ましたなんて妄言。それに彼はもう自殺してこの世にいない。本気で出し抜けると思うなんて、可愛いなぁ緋呂!」

「いるんだよ、証言できる奴が。たった一人だけ、な」

 コクーンセイバーの放つ目映い光からわずかに目を逸らし、緋呂は呆気に取られている一人の少女を見据えた。

「そうだろ、木陰芽吹」

 『木陰』この言葉を聞いて、正義は顔面を真っ白に染め上げた。全ての手札が切れてしまった人間のする顔だ。普通ならほくそ笑みたくなるだろう。神様気取りで散々他人を弄んだ男の末路がこれなのだから。しかし、緋呂の胸は晴々とはならなかった。

 コクーンセイバーの力は、言ってしまえば他人の隠し事を覗き見るようなものだ。確かに最適な行動は取れるかもしれない。しかし、必ずしも最善とは言えない。芽吹の見てきた世界を勝手に覗いた。緋呂はそのことが痛ましくて堪らなかった。

 謝罪の念を抱える緋呂をよそに、正義は震える手でピストルを頭につけた。ほんの一瞬の、気の迷いの内に。

「なら、こうするまでだ」

 銃声が鳴った。血が弾け飛んだ。こうして、一人の老人の生涯が終わった。最期と呼ぶには唐突で、呆気なさすぎた。

 緋呂は不思議な感覚にとらわれていた。憎かったはずなのだ。関わる皆の人生を弄び、一つの世界を混沌に陥れた。許されることではない。なのに、何故か涙がこぼれ落ちた。

「…九条、君」

 気がつけば、芽吹が傍にいた。

「ごめん。見てしまった。見てほしくない記憶。訳わからないだろうけど」

「いいよ。元々言うつもりだったし。自分責めすぎるかもって言わなかっただけだから。九条君、優しすぎて。それに今更だよ。訳わからないのなんて」

 とりとめのない言葉遣いで、芽吹が語りかけた。嗚咽と共に、緋呂は続ける。

「何で俺、泣いているのかな。こいつはあっちの皆を傷つけたのに。世界征服みたいなこともしようとしていたのに」

「家族だから、じゃない?お父さん死んだ時、アタシも泣いたもん。そんなにいいお父さんじゃなかったけど」

 そういうものなのかな。嗚咽で息苦しくて、言葉に出せなかった。芽吹に背中をさすられる。コンクリートの空間は、とても冷たかった。

 しばらくして涙も乾いた頃に、アドラが銀色の剣を片手に緋呂に近づいた。

「落とし物だ」

 そう言うと、アドラは地面に置かれたクロスカリバーに銀色の剣を突き刺した。銀色の剣とクロスカリバーが融け合う。朱殷の刀身が、ほのかな鮮やかさを得た。

 クロスカリバーとコクーンセイバーをアドラに持たせ、緋呂は正面に構えた。緋呂が頷くと、アドラも呼応して頷く。そして、赤と青の剣が緋呂の胸を貫いた。芽吹の驚く声が聞こえる。だが、痛みは無かった。剣は血と共に緋呂の体内へ入り、何事もなかったかのごとく胸の傷口は塞がれた。

 流れる血を感じる。この身体には多くの血が流れている。生命の存在証明が。出会った全ての想いが、全身を駆け巡っている。

 アドラと芽吹に目配せし、後ろの春島たち四人の使用人に顔を向けた。

「後はお任せを」

「ごめんな、面倒事やらせてしまって」

「それが役目ですから」

 警察に嘘のあらましを伝える。それが春島たちの任務だ。くれぐれもイデアコズモスにまつわる事を悟られてはならない。想像するだけで目眩のする話だが、それでも春島は微笑みを絶やさなかった。強い人だ。

「じゃあ、行ってくる」

 四人は声を揃え、

「行ってらっしゃいませ」

 と返した。そして緋呂は、妹の遺体が横たわるケースへ足を踏み出した。絶対助ける。その想いを胸に込めながら。

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