第三十九滴 現人神

 放心。虚脱。絶望。目の前でそれら全ての喪失感を味わっている緋呂の姿を見て、正義は笑いが止まらなかった。

 歯向かおうとした孫の末路がこれだ。息子も瑞乃の回収を阻止できなかった。お父様の言った通りだ。自分は何でもできる。現人神となるに相応しい選ばれた者なのだ。

 正義は幼少の記憶を脳裏に甦らせた。父は太平洋戦争の渦中を生きた兵士だった。階級は少尉。天皇に対する敬虔さは上官含め、他の誰よりも強かった。追慕は敗戦後も変わらず、GHQから受けた財閥解体の煽りを、全勢力をもってはね除けたほどである。

 これら父の伝説的行為は口伝で知ったのみであったものの、正義は事実と信じて疑わなかった。まず、自らの命名理由が『神国大日本の正義を体現せよ』との事であったし、毎年、終戦記念日になれば食卓で『米国ごときに歯牙を抜かれて何事か』だの『大日本の翼を折る恥ずべき行事である』だのと、不平不満を聞かされた。幼心に口伝は真実だと確信したものだ。

 通常の場合、これだけ口うるさく言われれば子供というのは嫌気がさすらしい。が、正義は違った。財閥解体を免れた唯一の財閥であるという事実にはじまり、父の行動は決して曇らなかった。一言添えれば国内有数の大企業も傘下に降りた。皇室に足を踏み入れたこともある。あらゆる声、あらゆる所作が天人冥合であるかのように讃えられた。そう、父は神だったのだ。そして神は正義に告げた。

「お前は現人神となる器だ。大日本、いや、世界の光となるのだ」

 と。本気にしない人間がいるだろうか。神の御業を成す姿を見てきた、そんな人物が神になれると認めた。嘘であるはずがない。

 それからというもの、正義は現人神となるための手段を探していった。神とは支配者である。支配に必要なのは力だろうか。確かに一因ではある。だが、革命やクーデターという前例は、力が支配の絶対条件ではないことを示している。

 ならば心だろう。全ての人間は心に支配されている。心のためなら道理を蹴破れる。これだ。心を支配しよう。そのために必要なのは言葉だ。聖書には『初めに言葉ありき』と記されている。聖書とは所詮人が神を知った風な顔で書いた紙束でしかないのだが、この一節はもっともだと思えた。

 ペンは剣よりも強し。攻撃は糾弾されるが、口撃は称賛される。ものの言いよう一つで、人は平気で騙される。財閥の動き、俗世の学習環境を間近で見てきたからこそ、それらが実感を持って理解できた。言葉を使おう。言葉で現人神となろう。

 だが、足りなかった。俗人は予想をはるかに上回る痴れ者具合で、言葉をまるで理解できていなかった。もしくは、腕力に訴えかける類人猿。いずれにせよ、言葉だけでは足りなかったのだ。一体、父と自分は何が違うのだろう。

 十七歳の時、転機が訪れた。父が病に伏したのである。無敵の神にも等しかった父はそれを境に、まるで別人のように弱々しくなった。死を恐れ、築き上げてきた威光の喪失を恐れ、毎晩唸っていた。『死にたくない』と。

 その光景はショックだった。父ほどの人物でさえ、こうも愚劣に堕ちるとは。不敗神話は音を立てて崩れた。神などいない。

 失意の中、正義は図書館へ通った。日課はこなすだけでも心に余裕が生まれるものだが、今度ばかりはそうもいかなかった。父は生ける伝説だった。病など簡単にはね除けると思っていた。苦悶に耐えるのみならまだしも、涙ながらに命乞いするなんて。図書館の静けさが、時計の針の音が、正義の胸には重々しすぎた。

 そんな時である。スウェーデンボルグの書籍、『天界と地獄』が目に入ったのは。神などいないと決別しようとしても、心の奥底は誤魔化しきれなかった。自然と手が伸びていた。ページをめくっていた。そして、その内容に人生を変えられた。もちろん良い意味で。

 死後の世界を知り、父の様子を再度確認し、正義は誰にも気づかれぬままおもむろに笑んだ。

 そうか、これを握ればいいんだ。

 正義は病床に伏す父の耳元に顔を寄せ、揚々とした気持ちを堪えながら囁いた。

「僕、夢、叶えるから。ちゃんと見ててね」


「長かったなぁ、あれから」

 ノスタルジーに浸りつつ、正義は緋呂を蹴り転がした。顔を踏みつけ、独り呟く。

「やっと夢が叶うよ、お父様。世界の光になれるんだ」

 クロスカリバーの刃を緋呂の胸に突き立て、刺そうとしたその時だった。何かが正義の耳をかすめた。弾痕。ということは、相手はピストルを持っている。だが、小娘が使えるとは思えない。ましてや、イデアコズモスの住人がピストルを知っているはずがない。

「誰だ」

 正義が振り向くと、そこにいたのは九条財閥の使用人だった。大人びた佇まいをした女は、銃口を正義に向けながら叫んだ。

「緋呂様、春島のご無礼をお許しください。しかしあれを見た以上、この方を野放しにはできません」

 クロスカリバーを構え、正義は春島を睨みつけた。

「主人に噛みついたらダメじゃないか」

「私は緋呂様に仕える身。あなたではありません」

 ピストルが再び轟音を鳴らす。コンクリートの壁いっぱいに反響する。だが、正義には当たらなかった。正義は左手に抱えた緋呂を投げ捨て、鼻で笑う。

「無理だよ。力の差がありすぎる。死ぬよ?君」

「嘘ですね」

 春島の間髪いれぬ返事に正義は眉を上げた。

「ご客人、いえ、アドラ様よりお聞きしました。世界の違うもの同士は触れ合えないのでしょう?その剣は私を斬れない。ですが私はこの世界の武器を持ち、この世界に生まれたあなたと対峙している。どちらが有利か、私でも理解できますとも」

 図星。故に爪を噛む。嘘を看破されたのは生まれてこの方、初めての出来事だった。悔しい。あの女の顔を歪ませてやりたい。敬虔な聖女のような面構えを、足元にいる奴のように虚脱感で染め上げてやりたい。

 正義は緋呂に目標を定め、クロスカリバーを振り上げた。

「じゃあ試してみようかな。この男は斬れるかどうか」

 春島の顔色が変わった。当然の反応だろう。口では何と言おうと、頭でそうはならないと理解していようと、人は死を前にして理性を失う。あまつさえ親しくもない人物の助言だ。全幅の信頼を寄せられるわけがない。もし本当に斬れてしまったら?そう思っているのだろう。だから顔色が変わる。

 ああ、楽しいなぁ。弄ぶのって。

 クロスカリバーが緋呂めがけて一直線に降ろされた。朱殷の剣が胴を裂かんとするまさにその瞬間だった。虚空から声が聞こえた。

「刻雲世刃─コクーンセイバー─の名の下に」

 そして、細長い紺碧の剣がクロスカリバーを受け止めていた。驚愕から、正義は息が漏れた。剣の伸びた先に顔を向ける。何色とも形容しがたい物体が正義を見据えていた。

「我が名はヴァキュアス。今一度、其の胸に刻むが良い」

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