第三十八滴 世界に必要ない
コンクリートに囲まれた地下の道、その先にほのかな光が見えた。あそこに九条正義がいる。緋呂は固唾を呑んだ。
「ちょっと待て」
後ろからアドラの声がした。コンクリートを踏む小気味良い音がついてくる。そうしてようやく、自分が足早になっていたことに気づいた。
「どうやって戦うつもりだ」
硬直。そういえば、策らしい策を考えていなかった。早くイデアコズモスに向かわねば。それしか頭に無かった。
「だろうな。お前は直情的すぎる」
何も言い返せなかった。事実なのだから。どうも瑞乃が絡むと冷静さを欠くらしい。冷ややかな空気を肌で感じ、肺が満タンになるまで吸い込んだ。
「奴はおそらく、銃とお前の剣を使うだろう。由来が由来だけに、お前を斬れるだろうからな。そこで一つ、提案がある」
アドラはそう言って、銀の剣をどこからともなく取り出した。剣を目の前に掲げて言葉を続ける。
「これは俺に残されたオーバーロードとしての残滓だ。お前の持っていた剣が九十九ならば、この剣は一の力しか持たない。とはいえ、無いよりはマシだろう。これをお前に刺し、受け渡す」
緋呂は唖然とした。クロスカリバーの時と同じことをやろうとしているのか。けれど、
「じゃあお前はどうなる」
「オーバーロードとしての力、俺の存在定義が一つ消える。痛みは前より楽になるが、戦うことはできなくなる」
存在定義が一つ減る。幾多もの生命の記憶を持ち、それに自我を侵されかけているアドラだ。確かに、自分を定義するものが減れば、痛みは和らぐだろう。存在定義が多すぎて困っているのだから。しかし、戦う力を失うということはつまり、戦力が緋呂のみになることを意味する。
すかさず、緋呂はアドラの頬を殴った。鈍い音がコンクリートの壁に響く。鉄の落ちる音が後を追う。芽吹が血相を変え、アドラの傍に寄る。
「やめてよ、九条君。アドラは敵じゃないでしょ?」
芽吹の声が耳に入らぬほど、緋呂は夢中でまくし立てた。
「お前がやれよ。守りたいんだろ?妹。なら、簡単に手放すなよ」
「だが、他に方法は──」
「舐めるな。奪われたものぐらい、自力で取り返してやる」
興奮冷めやらず、肩で息をする。踵を返して正義のいる場所へ行こうとする緋呂の脚を、傷だらけの手が掴んだ。
「情けない話、俺はもう戦える身体ではないんだ。鎧を纏う度、身体が裂けそうになる。それに、クジョウマサヨシに勝てるのはお前しかいない」
「どういうことだ」
緋呂が尋ねると、アドラは立ち上がって芽吹の手を握ろうとした。が、その手は空気を握るようにすり抜けた。緋呂と芽吹は目を見開いた。
「世界を異にする者同士は触れることができない。俺が挑んだところで、ミズノのいる装置に被害が及ぶ危険を孕むのみだ」
俯くアドラの拳が筋張り、震えているのが見えた。やれることなら自分がやりたかったのだろう。緋呂は悟った。やりたくてもできないのか。こんな無力感を緋呂はよく知っている。
緋呂の襟を掴み、アドラは声を振り絞った。
「もう一度言う。クジョウマサヨシに勝てるのは、お前しかいない」
嘆願。熱気こもる空気の中、暗く無機質な天井を仰いで緋呂は言った。
「刺してくれ」
それを聞いてアドラは緋呂に背を向けて、袖を目に当てた。刹那、剣を拾い上げて切っ先を緋呂の胸に突き立てる。
「思えばこれが始まりだったな、俺達」
緋呂は感慨深く息を漏らす。アドラが微笑んだ後、
「いくぞ。血を流す覚悟は出来たか?」
「当然」
緋呂の答えと共に、銀の剣はマゼンタの焔を纏って胸を貫いた。吹き出した血は焔と融け合い、胸の内に収束していく。何事もなかったかのように傷口は塞がり、緋呂は我に返った。
「準備完了、だな」
自信に満ちた声に対し、アドラは頷いた。
「少し待っていてくれ。道、開けてくる」
それだけ言い残し、緋呂は振り向かず仄かな光へ走っていった。コンクリートを踏む足は力に溢れていた。
こうして現在、緋呂は正義と対峙している。
「そこ、通してもらうぞ!」
マゼンタの焔が噴き上がる。剣を下段に構えつつ、緋呂は正義に向かっていった。
懐、死角に踏み込んだ。振り抜く。正義は咄嗟に後ろへステップした。剣は正義の服を斬り裂く。あとわずかだった。けれど、いける。実戦経験はこちらの方が上だ。それに、どうやらクロスカリバーが馴染んでいないらしい。勝てる。
「と、思ったのかい?」
背後から正義が嘲笑う。バカな、今の今まで目の前にいたはずなのに。上段からクロスカリバーが振り下ろされる。間一髪、鍔競り合いに持ち込んだ。だが、完全に押されている。体力に優れている訳ではないにせよ、老人に力負けする道理なんて無いはずなのに。
「そんな残り香みたいな力でどうにかできると考えること自体、大間違いなんだよ!」
押し込みが強くなる。そこで緋呂は力を利用して側面に自分の身体を転がした。たかだか一度の鍔競り合いでも、息が絶え絶えになる。これが、九十九と一の差。
「諦めた方が賢明じゃないかな」
正義が嘲笑う。あそこまで感情を剥き出しにするのは昨日旧家に忍び込んで以来だ。焦燥。明らかに余裕を失っている。しかし、心理的なハンディキャップなど力の差で掻き消されてしまう。
「誰が!」
考えろ。この差を埋める秘策はきっとある。
「無いよ」
心を読まれた。アドラと初めて剣を交えたあの時と同じく、緋呂の心を正義が読んだ。
「驚いたなぁ。持ち主が道具の使い方を知らないなんてね」
瞬きの間に、正義は緋呂の首筋にクロスカリバーを置いた。
「この剣、調べたらとても面白くてね。血を吸うんだけど、血の持ち主の心だったり記憶だったり読めちゃうんだよ」
三銃士と戦った時に覚えがある。確かにクロスカリバーは血を吸っていた。だが、それはオーバーロードの力ではないだろう。おそらく、アドラの体内で変化して生まれた力と思われる。在り方が血の巫女と似すぎている。そして、クロスカリバーは血から生成される。答えは自ずと導かれる。
「血の巫女、か。くだらない舞台装置だと思うよ。神の依代みたいなものなのにさ」
首筋のクロスカリバーをどけたいところだが、先刻の力量差を踏まえると、下手に動けば斬られるのがオチだ。迂闊なことはできない。
「神の、依代?」
「そうだよ。歴代の血の巫女の誰かが神様で、そいつに目覚めてもらうためだけに何千年と血なんか酌み交わしているんだ。バカみたいな話さ。メシアかオーバーロードに渡せば最強の兵士が生まれるっていうのに」
ずっと疑問だった。何故そんなことを知っている。
「言ったはずなんだけどね。イデアコズモス以外の人間は俯瞰できるんだよ。おとぎ話の登場人物と読者の関係性、と言えばわかりやすいのかな」
なるほど。アドラが言っていた。イデアコズモスは瑞乃がイメージした形の死後の世界、『薔薇の騎士』というおとぎ話を基に形成されたあの世だと。シンデレラが王子と結婚する結末を、シンデレラ本人が知るよしなど無いのだ。
「結局、何がしたいんだお前は」
「ここに来たってことは見たんだろう?パソコン。あそこに書かなかったかな」
正義は緋呂に顔を近づけ、囁いた。
「神様になりたい」
絶句した。普遍的で、いっそ清々しいほど幼稚な願い。しかし、どのように叶えるつもりなのか。
「それじゃあ物わかりの悪い孫にレクチャーしてあげよう。死後の世界の人物は、場合によっては質量を持って現実世界にやってくるのは知っているだろう?」
正義は顔を緋呂の耳元にすり寄らせた。悪寒が走る。
「鍵になるのはメシアとオーバーロード。獲得と喪失の象徴。この二つが合わされば、生死が自由自在になる。加えて、生命の記憶。あれは世界の誕生から現在、全てのデータを貯蔵している。ただ、預かれるのは血の巫女の血統だけ。しかも、男は自我が崩壊してしまう」
ようやく理解した。正義が緋呂を狙った理由が。
「そう、君になってほしかったんだ。神様の力を持った操り人形にね」
発狂したい気分だった。自分が導かれてしまったばかりに、正義の計画は本格化してしまった。アドラが力を託してくれたことさえ、正義の手中にあったのだ。命懸けの思い全てが茶番劇だったというのか。
「絶望したその顔、最高に可愛いよ」
正義は不敵に笑んで話を続けた。
「可愛いついでに教えてあげよう。生命の記憶を継ぐのってね、実はイデアコズモスの登場人物なら誰でもよかったんだ。たまたま君の条件が良かっただけで。何でかわかるかい?」
血の巫女の血統以外に生命の記憶は受け継げない。イデアコズモスは死後の世界。瑞乃が世界の基盤。何か、大切なものが音を立てて崩れ落ちていった。
「あそこにいる人達、全員九条家の人間なんだ」
震えが止まらない。メシアとして慈悲の感情を失った時のこと、それ以前に三銃士と命のやり取りをしたこと、イデアコズモスでの何もかもが脳裏に甦る。
「じゃあ俺、俺は…」
「殺し合っていたのさ。正義面して、自分の先祖達とね!」
コンクリートの壁に、発狂と高笑いが響いた。装置の向こうに、瑞乃の死体が見える。涙で景色が歪む。
すると、クロスカリバーから声が聞こえた。瑞乃の声。
──来ないで
拒絶。守りたかったものからの拒絶。いや、そもそもいなかったのかもしれない。戦う相手も、守る対象も。だって、全て茶番だから。勝手に敵と決めつけて、勝手に殺し合っていただけだから。守る必要なんてどこにも無かった。
緋呂は虚となった。高笑いが胡乱に聞こえてくる。空気はとても、とても冷たかった。
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