第三十五滴 イデアコズモス

 この世は神が作った物語である。緋呂に限らず、誰しも一度はそんな発想に至ったことがあると思う。けれど、本当に神の筆の上で作られ、動かされていると思っている人間などいないだろう。だから絶句した。目の前にいる自分と瓜二つの男が物語の登場人物だと語ったことに。それも、よりによって神の名前が妹と同じ名前だなんて。

 このことが何を意味しているのかわからないが、緋呂は動揺を隠せなかった。

「お前が物語の登場人物?なら、あの世界はおとぎ話の世界っていうのか?それに『ミズノ』って、神がそう名乗ったのか?」

 緋呂は夢中になって、思いついたことを次々と口にした。あり得ないことは無いのかもしれない、なんてことはイデアコズモスで散々味わってきた。だから知らなければならない。あの世界をとりまく全てを。ローザを守る、約束を果たすために。いつまでも不透明なままではいられない。

「教えてくれ。真実を知りたいんだ」

 アドラは緋呂を見つめ、少しの間を置いて言った。ほんの一瞬、頬が緩んでいた気がする。

「少し違う。正確に言えば、死を迎えた者達の集う場所、あの世をミズノが具現化した世界に俺達は住んでいる」

 それからアドラは本を強調するように揺らした。

「早い話、死んだ『何か』がこの物語から姿を得て生きている。それが俺の住む世界の正体だ」

 わかりきってはいても、改めて胸が苦しくなる。瑞乃は死んだ人間なんだと再認識してしまう。緋呂の足がよろめく。

「大丈夫か」

 アドラが近寄る。息が詰まりそうだ。けれど、この苦しさから目を背けてはいけない。世界を知らなければ、何も始まらないから。

「続けてくれ」

 足を踏ん張り、緋呂はアドラに向き合った。

「神の名は生命の記憶、俺の血に刻まれていた。それが何を意味するのかまでは知らない」

 生命の記憶。船長から聞いた話によれば、ローザ達メイデンの王族の女性は血の巫女という役目を与えられ、親の血を飲むことで世界の記憶を受け継いでいく。いわば生きる歴史書というわけだ。

 だが、何故そんな記憶をアドラが持っているのか。考えられる線は一つ。緋呂は血相を変えて問いただした。

「お前、飲んだのか。母の血を」

 アドラは迷わず答えた。

「そうだ。死の間際、母が飲めと言った」

 血の気が引いた。胃から込み上げてくる気持ち悪さを紛らすように、緋呂はアドラの襟を掴んだ。

「だからってお前…」

「飲まなければ死んでいた。俺も、お前も」

 そう言ってアドラは緋呂に指さした。話の繋がりが見えない。緋呂は硬直した。

「母の血を飲み、俺は生命の記憶を得た。同時に、オーバーロードへと覚醒した。だが、問題が生じた。男が受け継ぐと、どうやら自我に影響が出てしまうらしい。数千年も溜められた記憶に呑まれかけた俺は、お前にオーバーロードの力を与えた。増えすぎた自己の定義を減らすために。それがお前の剣となった」

 クロスカリバーが頭をよぎる。あの力を自分に宿したのはアドラだったのか。

 背後にあるデスクトップパソコンを強く意識する。壊れるのを防ぐために容量を減らした、といったところか。

「じゃあスカルバーンを名乗っていたのは何故だ。ローザを、妹を危険に巻き込んで」

 緋呂はずっと引っかかっていた。妹を助けに行きたいと願うなら、どうして今まで敵に成り下がっていたのか。いついかなる時でも妹の力になるのは、兄として当然のことではないのか。もう一人の自分というなら、そのことは解しているはずなのに。

 すると突如、アドラは頭を抱えた。すぐに体勢を立て直したが、明らかに呼吸が不安定だった。

「スカルバーンは俺の存在定義。『アドラ』は死んだようなものだ。こうも混ざり合っては、自我として使いものにならない。今でも臨界点直前なんだよ。いつ『アドラ』が消えるかわからん」

 震える身体を鎮めるのに精一杯のアドラは、声を絞って言葉を続けた。

「とはいえ、『スカルバーン』も所詮は後付けの存在定義だ。壊れないよう強く保つ、そのために悪漢に堕ちてしまった。不甲斐ない限りだ」

 もう一人の自分だと言った意味が少しわかったように感じる。アドラの口から漏れる悔恨を否定できない。自分だって、メシアという存在定義にすがりつかないと正気を保てなかった。

 思えば、スカルバーンがローザに危害を加えたことは無かった。合衆連盟から連れ去った時も、ローザの身体には傷一つついていなかった。悪行という強く醜い意志に染まらざるを得ない身になって尚、妹を守る心は失われていなかったのだ。

「何も言い訳はしない。俺のしてきた罪は許されない。だが、せめて尻拭い程度はしなければ死にきれん。改めて頼む。俺のワガママに付き合ってくれ、ヒロ」

 緋呂は背を向け、曇ったデスクトップパソコンに写る自分の顔を見つめた。汗で湿っている。けれど、表情は曇り一つ無かった。意を決したと、身体も了承してくれたような気がした。

 確認を終え、緋呂は再びアドラの方を向く。アドラは不安なのか、顔が強ばっていた。そこで緋呂はアドラの胸に拳を突き立てた。

「もう一人の俺だって言うならわかれ。俺は困っている人達を見捨てたくない。そういう奴なんだって。まぁ、見失っていた時もあったけどな」

 俯く緋呂に対して、アドラは瞼を閉じて感慨深そうに言った。

「協力、感謝する」

 アドラが手を差し伸べようとしたその時だった。何かが緋呂の耳元を横切った。耳から血が垂れてくるのがわかる。突如、壁に刻まれた黒い弾痕を見て、緋呂は咄嗟に身構え振り向いた。

 目に映ったのは消音機能を付けたと思われる拳銃、巻き上がる硝煙、拳銃を持つ謎の覆面、そして、

「来るだろうなとは思ったよ、緋呂」

 覆面の後ろに立つ悪魔(トリックスター)、九条正義の姿だった。

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