第三十四滴 薔薇の騎士

 緋呂とアドラは祖父の、九条正義の家に来ていた。謎の失踪を遂げて七年が経った老夫婦の家が、売り払われも取り壊されもしていないのは違和感がある。そのくせ立ち入り禁止の標識は立てられている。裏があるとしか思えない。

 とはいえ、自発的に世界を移動できたのは正義の方である。どれだけ奇妙であろうと、彼の辿った形跡に頼るしかない。目の前にそびえるコケまみれの家が、緋呂とアドラの生命線なのだ。

 生い茂る雑草を踏み分け、緋呂は部屋の中へ窓から入ろうとする。それを見たアドラは、

「行儀がなっていないぞ。扉から入れ」

 と、下らない釘を刺してきた。行きたがっていたのはどっちだよ、と緋呂は不服に思いながら、これみよがしに扉を引っ張った。すると錆びきった金具が外れ、扉は呆気なく倒れた。

 うつ伏せの扉を一瞥してから、緋呂は当てこすりの意図を込めて言った。

「どこにあるんだ」

 そして緋呂は窓から部屋に飛び降り、アドラはため息をついてから家の『穴』に入った。

 靴からカビが舞う。咳き込み、口を押さえてかがむ。元からさほど身体が丈夫ではない緋呂は、マスクを用意すればよかったと後悔しきりであった。同時に、どれだけクロスカリバーに身体面を助けられていたか思い知った。

 呼吸器官が落ち着いたので顔を上げると、辺り一面本棚だらけだった。財閥の人間だというのに経営学の本はほとんど無い。代わりに物理学や心理学、あとはスウェーデンボルグの本が大量にあった。合衆連盟で言っていたこと、死後の世界の研究をしていたというのは真実だったようだ。

 机に手を乗せる。肘に何やら固い物が当たり、埃が飛んだ。振り向くとデスクトップパソコンが置かれてある。鼻をつまんでまじまじと見つめる。すると、キーボードの上の埃が妙に不自然であることに気がついた。まさかと思い、緋呂は声を漏らした。

「後から埃を乗せたのか?」

「どうやらそうらしいな」

 背後からアドラが答えた。緋呂は飛び上がるように反応する。一瞬、心臓が止まったかと思った。

「いきなり声かけるなよ、ビックリするだろ」

「タイミングぐらいわかるだろ、もう一人の俺なんだから」

「わかるかよ、エスパーじゃあるまいし」

 それもそうだ、とばかりにアドラは笑う。直後、顔を引き締めて言った。

「他の部屋も見てきたが、どこも埃まみれにしては壁にカビすら生えていない。変な話だと思わないか?」

 緋呂は確信した。この家はまだ使われている。空き家に見せなければならない理由があるということは、いかがわしい内容であることも確定事項である。緋呂とアドラが立っているのは、そんな家屋(かおく)の司令室なのだ。

「怪しさ満点の根城、探ってみますか」

 まず、緋呂はデスクトップパソコンの電源ボタンを押した。案の定、七年間空き家のコンセントからしっかり電気が供給されてきた。

 さて、ここからが問題だ。

「ぱすわーど、とは何だ」

 画面上に出てきた表示を眺め、アドラが尋ねる。

「門番みたいなものだ」

 と素っ気なく答える。緋呂はとりあえず、思い当たるものを入力し始めた。当人あるいはスウェーデンボルグの生年月日、神話の用語、本棚に詰め込まれた書籍のタイトル。数十回やってみたが、どれも外れだった。

 埃に構わず、緋呂は床に座り込んだ。異臭が緋呂の鼻腔を突いてきて咳き込む。このままだとイデアコズモスより先に病院へ行かないといけなくなりそうだ。

「クソ、何なんだあいつ。パスワードぐらいシンプルに作れないのか」

 頭を抱えて愚痴をこぼす。こう上手くいかないと脱線したくなるのが人間の性である。緋呂はアドラに問いかけた。

「ところでお前達は何であいつのことを知っているんだ?」

 緋呂の知る限り、アドラ達と正義が顔を合わせたのは合衆連盟への勧誘と、合衆連盟本部襲撃の二件だけ。素性を知る機会に至っては後者のみである。だがヴァキュアスと初めて剣を交えたあの日、彼等は正義のことを知っているような発言をしていた。一体いつから正義を認知していたのか。

「お前にクロスカリバーを授けた日、俺が出撃したのはそれを知る目的もあった。あそこはヴァキュアスが生まれた地でもあるからな」

 言葉を失った。ヴァキュアスが生まれた?

 硬直する緋呂に対して、アドラは話を続けた。

「草木が言うには、ヴァキュアスは元々『忘却』という概念そのものだったらしい。あの洞穴の中で産声を上げた『忘却』は、自分が忘れ去られることを恐れた。以前の世界でもそうだったように」

 以前の世界。その言葉は緋呂の脳裏に焼きついた。ヴァキュアスはイデアコズモスの住人ではないのか。

「そこに現れたトリックスターが唆したらしい。争いは忘れ去られない、と」

 合点がいった。今まで、残酷な手口で他の国や村を襲ってきたのは全て、自分が忘れられないようにするため。『ヴァキュアス』という存在を世界に刻むための行為だったのだ。

「トリックスターと手を組まなかったのは恐らく、奴の本能によるものだろう。腐ってもメシアだった、ということだ」

 メシア、トリックスター。そうした単語を聞いて、緋呂は思うままに呟いた。

「トリックスターとかメシアとか、まるで物語の登場人物みたいだな」

「そうだ」

 即答したアドラの方を見る。次に口を開いたら、いきなり何を言い出すんだこいつは、などと出かねないほど呆然とした。

 そんな緋呂をよそに、アドラは正義の本棚から一冊の本を取り上げた。本が緋呂の眼前に突きつけられる。真っ白な表紙に金の装飾。中央には絵が描かれてあった。騎士、魔王、姫、そして──薔薇。

「俺達は全員、ミズノという神が創った登場人物だ」

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