第三十一滴 得るは難く、失うは易し

 ヒロとアドラが消えた後、クジョウマサヨシも行方をくらませた。十字の剣を抱えて。ヴァキュアスも後を追って姿を消した。夜が明けきる頃には、ローザ以外の全てが目の前から消えていた。結局、ローザは自らの内に眠る『誰か』に振り回される他、何もできなかった。

 一足遅れてクウケンとカットラスがやって来た。クウケンがローザに駆け寄る。

「無事でしたか」

 ローザは俯き頷く。

「…隊長、いない」

 カットラスが辺りを見回して呟いた。太陽の眩しさが今は憎らしい。

「消えた。ヒロも、兄さんも。私のせいで」

「…何かあったんだね」

 カットラスは伸ばしかけた手を引っ込めた。悲痛な顔がローザの心を抉る。力を持って後悔するのなら、こちらにくれないか?後悔する機会すら持てなかった私に、せめて後悔するチャンスをくれないか?

 地面に染みが点々と出来る。羨ましくて憎らしい。私は泣くことしかできないのに。

「お悔やみ察し申し上げます」

 クウケンの優しさは、ぬかるんだローザの胸中に打ちつける雨にしかならなかった。わかりはしないだろう。力がある限り、この惨めさを理解することは不可能なのだ。

 合衆連盟本部に戻ると、入口で難民達が一堂に会していた。皆は口々に不安を訴えた。クジョウマサヨシは、ヒロ(メシア)はどこに行ったのか。ローザは言葉を発せなかった。言えるわけがない。邪悪の化身であった組織のトップを取り逃したこと、自分が皆の心の支えを消してしまったこと。言えばどうなる?非難。糾弾。孤立。どす黒い恐怖はローザを立ちすくませた。

 けれど、民は求めている。答えを。民の視線がローザに刺さる。何かを言ってほしい。煙に巻けば、このどす黒さを民に押しつけることとなる。それをしてしまえば、失ってはいけないものを失ってしまうに違いない。だが、ローザには口を開くだけの力を持っていなかった。

「姫、お答えください。姫」

 骨張った身体を震わせ、老いた男は問いかけた。不安。声のおぼつかなさが否応なしに伝えてくる。言うしかないのか。絶望を与えてでも、真実を語るしかないのか。

 その時、クウケンがローザの前に出て、

「メシアは真の黒幕である総長と覇王ヴァキュアスを討った。自らの命と引き換えに」

 案の定、民はどよめいた。指導者が全ての糸を引いていた恐怖や、覇王ヴァキュアスを討ち取った喜び、メシアの殉教に対する畏敬の念、万感が混濁していた。

 耐えきれず、ローザは言った。

「私のせいだ」

 どよめきは沈黙に変わった。再び視線がローザに集まる。固まる唇を動かし、かろうじてローザは声を出した。

「私は何もできなかった。何もだ。ヒロの力になれなかった。私がヒロを殺したんだ」

 電灯が一つ消えた。途端に、太陽届かぬ地下の影が一同を覆う。

 しばらくして、老いた男はローザに歩み寄った。頬を伝っていた涙を拭い、歪な膝を曲げてローザの瞳を優しく見つめた。

「なんと小さい。こんなにも幼い少女が、我々のために尽力してくださっていたのか」

 噛みしめるようにして言う老人の目に嘘偽りなど無かった。

「姫、力になれなんだのは我々も同じです。人は後ろには戻れませぬ。世界は救われた。ならば、メシアの築いてくださった礎を踏み外さず歩む。それが我々のすべきことでしょう」

 そうじゃない。私が言いたいことはそうじゃないんだ。ローザの心は躊躇いの鎖に縛られながら叫んでいた。

「じゃあメシアの代わりに俺がお姫様の傍にいるよ。今は無理だけど、絶対頑張るから」

 そう歳の変わらない少年がローザに近づいて言った。なんと勇ましいことか。自分には無いものを彼は持っている。皆に期待半分で茶化されているあの少年が羨ましかった。

 少年に向けて、ローザは笑顔を作った。

「私も待っているよ」

 微笑むローザの唇には、噛み痕が刻まれていた。


 光陰矢の如し。なだれ込む『誰か』の記憶が、そんな言葉を口にした。エル王国は加速度的に勢力を弱め、世界にはすっかり平和が戻っていた。クジョウマサヨシのもたらした知識は諸国の発展に活かされ、わずかな期間でほとんどの国は進化を遂げた。今では離れた土地同士の交信など当たり前に行われている。機械という新技術が人々を豊かにした。世界は前よりも便利になっていた。ローゼンメイデン王国も建国十年で数千万の人口を裕に超える大国となった。

 ローゼンメイデン王国。未だに慣れない響きだ。どうせ国家を新たに創るなら、救世の姫ローザの名を冠したものとしようという提案を基に決められた。普通なら歯が浮く思いを抱くべきなのだろう。しかし、ローザは胸を刺される心地になる。無力な自分が祭り上げられている事実が首を絞め上げるのだ。

 王城サング・エ・サクリフィーチオ最上部の窓辺から造られた国を眺める。誰もが富み、笑顔の絶えぬ光景。目指したものが用意されているのに、女王の心は晴天に背を向けていた。空の青さが皮肉に思える。

 後ろから扉を叩く音がした。

「入っていいぞ」

 呼びかけると、オルキデアが中に入った。十年前勇んでいた男が、今はローザの騎士──と言っても戦うわけではなく、女王の身の回りを管理する任を負っている──となっている。有言実行の男、それがオルキデアなのだ。

「最近、物思いに更けることが多いですね」

 オルキデアは神妙に尋ねた。

「メシアと関係している、とか」

 ローザは黙した。

「やはり、何か隠していますね」

「藪から棒に不遜なことを言うな」

 するとオルキデアはローザの手を握り、柔和な顔つきからは想像もつかぬほど鋭い目つきで言った。

「貴方が横柄な言葉遣いをする時は、決まって嘘をついてらっしゃる時です。ご存知でしたか?」

 ローザは目を逸らした。この琥珀の眼からは逃れられぬ。向き合ったところで、合わせる顔などない。

「やはり、生きているのですね」

 沈黙。

「僕は他者が気触れ者扱いしようが構いません。陰口など大いに結構。ですが姫、貴方に隠し事をされるのだけは耐えられない」

 声が荒くなっていく。

「僕には話せませんか?打ち明けてはくれないのですか?この十年、貴方のために生きました。騎士となって三年、貴方に寄り添いました。全てを受け止めます。だから話してくれませんか?僕は貴方の口から真実が欲しい」

 ああ、その顔をしないでくれ。ヒロを思い出してしまう。ローザは天高く燃え盛る太陽を前に影を濃くした。

 興奮が落ち着いたのか、オルキデアは自分がローザを抱き寄せていたことに気がついたらしく、すかさず身を離した。

「申し訳ありません、ご無礼を」

 オルキデアはわかっていない。お前を大事に思うから話したくないのだ。話せば必ず軽蔑する。傍を離れる。私はそれが怖い。ワガママに付き合ってほしい。壊れそうな私の心の添え木になってほしい。

 ローザが目ではわからぬ苦悶に苛まれていると、突然外から轟音が響いた。刹那、あの光景が甦った。全てを失った日。全てが欠け、戻らなくなったあの日。

 外に顔を出す。黒煙と炎が舞っていた。上空には武装した飛行船が構えていた。飛行船から声がする。

「聞いてっか、平和ボケした皆さん。オレはヒュブリス。エル王国の新たな支配者で、今日からアンタらのご主人様になる男ッスよ!つー訳で、戦争開始~!」

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