第三十滴 窓の外から世界を見る2/2──And more…

 俺だって信じたくなかった。窓から緋呂が家を出ていく様子を見て、アドラは呟いた。隙間風が肌に染みる。誰だって信じたくはないだろう。自分が誰かの似像であるなど。今までただ一人の存在と信じてきたものが、そうではないなどと。堪えがたい現実をアドラは一日の内に、刹那の内に受け止めねばならなかった。母の血を飲んだ運命の日、とめどなく流れる時の一掬いで。

 神に文句を言ってやりたいとまで考えている。だから、アドラにしてみれば幸運だったのだ。いつ自分が消えるともわからぬ恐怖と苦痛に、感謝の念すら覚えている。『スカルバーン』という名の盾を作らせてくれたから。空虚な存在に身を委ねることで、自分が何なのか悩む必要がなくなった。もうアドラは死んだ。そう思えば、耐え難い自己の儚さに悶えることはない。どうして死人が己について悩めるだろうか。

 皮肉にも、その眠りを妨げたのが『オリジナル』なのだが。九条緋呂。アドラという存在の元となった男。どのような奴かと思えば、孤独の殻に閉じ籠った臆病者じゃないか。アドラは失望していた。かけた希望が大きすぎたとも言える。だが、自分の代わりに妹を護り、世界を救ってほしいと願うのは大それたことだろうか。オリジナル相手にそうした願いを託すことが、そんなに間違ったことだろうか。奴は期待を裏切った。他人の存在価値を奪っておいて、現実から目を背けてばかりの男がオリジナルとは認めたくなかった。

 頭痛が走る。自己を保てないために、身体が離反行為に及んでいる。闇の中に伏し、アドラは身をよじらせた。とめどなく流れてくる生命の記憶に飲まれぬよう堪える。

「依(え)せ、我が血潮」

 苦し紛れに詠むと、身体中の穴という穴から赤い液体が流れ出た。肌身に纏わりつき、鎧を象っていく。脱ぐと決めた仮面を、再び顔に覆わせざるを得なかった。徐々に骨肉の活力が蘇ってくる。影の傾きに目配せする。息を切らし、呟いた。

「一時間、及びそれを切る程度か」

 窓越しの夜空を仰ぎ、スカルバーンは笑い混じりのため息をついた。

「情けないな。本当に」

 声音は乾ききっていた。


 開けたままの引き出しが照らされる。紙束のめくられる音で瞼は開かれる。剥がれた深紅の欠片が舞う。光の色が変わっていた。どうやら、元の世界に戻る手がかりを探していたところ、いつしか眠ってしまっていたようだ。

「おはようございます、緋呂様」

 後ろから声がした。咄嗟に振り向き身構える。鎧を纏っていなかっただろうか。腕に目を落とす。白い袖が見えた。鎧は剥がれていたらしい。

「見慣れない衣装を召しておられますが、ご自分でお買いに?」

 若い女だった。昨夜の使用人とは異なるようだが、同じ役職であることは確かだろう。構えを解き、アドラは頷いた。

「でしたら言ってくださればよかったのに。お買い物なら、この春島(はるしま)がいくらでも致しますよ」

 ハルシマと名乗る女は甲斐甲斐しい振る舞いで言った。直後、少しの驚きを含んだ表情になる。

「お久しぶりですね、そうして笑むのは」

 言われてから、自分の頬に寄っていた緊張の正体を知った。ハルシマも微笑んでいた。幼い頃、世話になった臣下達のことを思い出した。今はもう、誰一人として生き残っていない。

「お気に障りましたか?」

 ハルシマの顔がすぐ傍にあった。慌てて首を横に振る。それからアドラは尋ねた。

「そんなに久しぶりだったか、俺が笑んだのは」

 アドラの手を握り、ハルシマは真っ直ぐ瞳を見つめた。そこにはアドラがいつしか忘れていた柔和さが含まれていた。

「ええ、とても久しかったです」

 涼風が髪を掻き分けた。胸の奥に灯火が点いた気分であった。こんな温もりも、しばらく満足に味わえていなかったな。全てがあの一瞬で失われたから。この気持ちをくれた感謝がしたい。だが、なかなか言葉が追いつかない。長い刹那の内に浮かんだのは、

「では、もっと笑えるように頑張ろう」

 だった。不遜に聞こえただろうか。ハルシマの顔を見る。和やかな雰囲気が増しているように感ぜられた。

 手を離し、ハルシマは言った。

「それでは支度しましょうか」

「どこへ」

「学校ですよ」

 生まれてこのかた、一度も耳にしたことのない単語に当惑した。ガッコウ、とはどのような場所なのか。尋ねるのは容易いだろう。しかし、下手に疑われるのも都合が悪い。アドラは言葉を呑み込んだ。

 支度を終え、扉の前に立つ。両脇の細長い箱の中には、大量の靴が入ってあった。使用人の人数分入っているものと思われる。取っ手に手をかけると、後ろから数人の使用人が、

「いってらっしゃいませ」

 と挨拶をした。大仰な出発だとアドラは思った。奴もそうなのだろうか。

 ガッコウまでの道程を理解していないので、今この身を包んでいる制服を着た者を探している。同じ制服の人間ならば、同じ組織の人間と考えるのが道理だろう。合衆連盟のように。

 生徒の一人に目をつけ、アドラは後ろから追いかけた。時間も無い。早いところガッコウという場所に着かなければ。代わり身の苦労を痛感する。つくづく勝手な奴だ。身体の軋みに耐えながら、心中で毒づいた。

 やっと門の前に辿り着いた。わずかな距離でも、肩で息をしなくてはならない。顔を上げると小さな建物があった。その中へ制服を着た人々が入っていく。まさかあれがガッコウだというのか。なんと矮小な。小規模組織ということだろうか。いや、考察している場合ではない。アドラは早急に辺りを見回した。ちょうど姿を隠せる場所を見つけるために。

 ハルシマの態度を見ておおよその察しがついたが、どうやらガッコウは時間厳守らしい。そうでなければ主人を急かさないはず。なので、アドラにしてみれば鬼門なのだ。ただでさえ代理人としてボロを出さないようにしなくてはならない。そこに持ってきて、姿を維持できる時間の制限を抱えている。憤怒が喉から溢れ出そうであった。

 そんなアドラの目に飛び込んだのは茂みだった。大きさも申し分ない。あそこなら鎧を纏って解除しても表沙汰にはならないだろう。脱兎のごとく走ろうとしたその時だった。

「九条、どこへ行く」

 厳めしい声が耳を通り抜けた。振り向くと、服が伸びているのではないかと錯覚するほど筋骨隆々とした男が立っていた。

「今日は持ち物検査の日だ。いくら模範生といえど、ルールはルールだからな」

 そう言われ、アドラはアキモリ(秋森)から渡された鞄を手渡した。早くしてくれ。こちらは時間が無いんだぞ。すると、男は苦い顔でこちらを見た。そして小声で訴えかけてきた。

「気持ちはわかるが手伝ってくれ。こっちだって首がかかっているんだよ。『某校体育教師、九条財閥御曹司に恐喝』なんてニュースで一面飾りたくないんだよ」

 徐々に額が汗ばんでいくのが見てとれた。アドラは気を利かせ、

「大丈夫ですよ。タイイクキョウシは素敵な方ですから」

 と返した。タイイクキョウシは額の汗を拭い、一息吐いた。その様子を横目に、アドラは速やかに茂みへ隠れた。

「依せ、我が血潮」

 小声で詠む。血潮が鎧を象るや否や、再び欠片と散った。赤い体液の通り道から透明の液が一斉に噴き出す。女はいい、か。アドラは自嘲し、ガッコウの中へ入っていった。靴箱の前に立つ。手紙の束をどけ、履き替えながら番号を確認する。3-2-9。この番号のある部屋がヒロの所属グループという訳だ。

 こうして無事に教室へ辿り着いたのだが、その後は中々タフであった。ジュギョウなるものが、ではない。周囲だ。誰とも視線が合わない。まるで透明にでもなったかのように。

 痺れを切らし、靴箱にあった手紙の主の一人を問い質したところ、

「九条君に直接話すなんて畏れ多いし」

 と、距離を感じずにはいられぬ発言をされた。恋文を渡す者の発言とは到底思えなかった。

 夕日照る帰り道、アドラは悟った。自分はヒロを知らなさすぎた。ヒロは孤独なのだ。誰も彼もが距離を取る。詰め寄る気も見せず、あわよくばの精神で悪戯に心を引っかき回す。一体、誰が彼の心に触れようとしただろうか。彼の存在を受け止めようとしただろうか。己という存在が希薄だからこそ、この仕打ちの意味が痛いほど伝わった。ヒロに会い、非礼を詫びよう。己が事情を押しつけ、他者を拒んだ真の臆病者と認めよう。行き先はわからぬが、いつか帰ってくるだろう。その時は、いの一番にそうしよう。

 この角を曲がれば家が見える。アドラが曲がると、見えたのは家ではなくヒロだった。時が止まったように、二人は互いを見つめ合った。

 最初に口を開いたのはアドラだった。

「俺は押しつけていた。俺の想いを。お前をわかろうとすらしなかった。ただ、勝手に期待をかけて勝手に憤慨した。最低な奴だ、俺は」

 深々と頭を下げる。影に顔が隠れる。だが、ヒロはすぐさま、

「俺もだよ。自分の世界しか見ていなかった。外がこんなに綺麗だと考えることすらしなかったんだ」

 そして、アドラの頭の位置に手が差し伸べられた。

「だからこれからは知ろうと思う。色んな『世界』を。勿論、お前の『世界』も」

 なんだ、逞しいじゃないか。アドラは顔を上げ、手を握った。赤々とした光が二人を彩る。

「そうと決まれば、やることは一つ」

 意志は一つだった。

「元の世界へ戻る。そして再び会おう、ローザに」

 門が開かれた。これは帰宅の開錠ではない。新たなる戦いの火蓋なのだ。アドラはそう確信していた。


 かつて、一人の男がいた。男はメシアという旗を掲げ、世界の救済のために前線に立った。しかし、最期は我々をも誑かしたあの悪魔に裏切られ、悪魔を道連れに消息を絶ったらしい。彼の名をクジョウヒロと言う。

 月に純白の花が照らされる。誰もがメシアの死を信じて疑っていない。生存説を唱えているのは自分だけである。おかげで笑えない冗談を吹聴する異常者呼ばわり。大メイデン王国の象徴たるメシアの像に唾を吐く不届きもの扱いだ。

 しかし、どうも胸にしこりが残る。もし伝え聞いたことが本当なら、どうして姫は時折あのような顔を見せるのだろう。まるで、真実をひた隠しにしているかのような、隠さねばならぬ使命にも近い意志に満ちた表情を目にしては、メシアの死を信じるのは難くなる。

 ベッドに倒れ、仰向けで天井の明かりを見つめる。あれから十年か。目が眩みそうになる。酔いから逃げるために瞼を閉ざす。勢いのまま眠る直前、一つの疑問を心中にてぶつけた。

 姫よ、メシアはどこにおられるのですか──

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