第二十九滴 窓の外から世界を見る1/2
「誰ですか」
第一声はそれだった。他に言葉が思い浮かばなかった。緋呂は呆気に取られていたのだ。夏場とはいえ、明朝の釣り堀に半袖半ズボンの恰好で立っている少女に。
未だ暗い中でもわかるほど少女はあからさまに拗ねて、
「心外だなぁ。そういう言い方、しなくてもいいんじゃないの?」
そう文句をぶつけられても、緋呂からしてみれば初対面なのだから仕方ない。
「どこかでお会いしましたっけ」
とりあえず尋ねてみると、少女は拳を作って両腕を後ろに伸ばし、身体を突き出すといった類型的な憤慨の意を示した。
「ひっどーい。ホントに覚えてないんだ」
相手が一方的に覚えている。こうした状況の場合、下手に自分も知っているかのようなフリはせず、本音を明かした方が拗れずに済むことを緋呂は知っている。なので緋呂は申し訳なさそうに頷いた。
「まぁしょーがないよね。小学生の頃一年間クラス一緒なだけだったし、話したのも一回きりだったから」
今すぐにでも申し訳なさを怒りの利子付きで送り返してやろうかと思った。そんな浅い付き合いで相手のことを覚えていたら多分そいつはコンピューターか何かだろう。それでなくとも緋呂の脳内はアドラのこともあってパンクしかけているのだ、余計なちょっかいをかけられては狂いそうになる。
内心の暴れ馬をどうにか堪え、緋呂は努めて冷静に言った。
「で、お名前は何なんですか、元クラスメイトさん」
少女は小石を緋呂の靴めがけて蹴り飛ばしてから答えた。
「アタシは木陰芽吹(こかげめぶき)。釣り堀の天使、なんてね」
朝日が昇り、緋呂は芽吹の顔が紅潮しているのに気がついた。思わず吹き出し、
「恥ずかしいならやめろよ、その言い回し」
釣り堀の縁に腰かけた。芽吹も寄ってきて、
「そういうスカした所、昔っから変わんないよね」
芽吹がこぼしたその言葉に引っかかりを覚えた。
「一度きりしか話していないのによくわかるな」
「そりゃ九条君、クラスで浮いてたもん。お金持ちってだけじゃなくて、大人っぽい所とかさ。嫌でも覚えちゃうよね」
栗色の毛を揺らし、悪戯に笑む。翻弄されるのは好きではない。それを察したのか、芽吹は笑いながら手を合わせた。
「ゴメンゴメン。せっかくだし釣りしようよ。アタシ、教えてあげるから。ね?」
快活な雰囲気は釣り人と言われても違和感は無いが、華奢な腕と言動の幼さから量るに、とても釣りに長けた人物には見えない。
「信じてないでしょ。こう見えても、毎日家族の主菜をお魚にできるテクはあるんだからね」
芽吹が顔を近づけてくる。栗色の髪は潮風を浴びて芽吹の頬にかかる。一方的な関係とはいえ、幼馴染と断られたからか心穏やかではいられない。いつもはいくら女子に言い寄られても眉すら動かさない自信があるのに、どうしたことだろう。
緋呂は己の乱心から逃げるように釣り具を取り出した。すると、芽吹は何の気なしに聞いてきた。
「餌は?」
「ここにあるじゃないか」
と、緋呂は魚のレプリカが付いた釣り針を見せた。
「いやだからそこに刺す餌の話」
「刺さなくていいだろ、魚影見て食いつくんだから」
突然、芽吹は腹を抱えて爆笑した。
「何がおかしいんだよ」
笑いすぎて出た涙を拭いながら、芽吹は息をするのも精一杯とばかりの声で説明を始めた。
「あのね、魚にも嗅覚はちゃんとあるの。人間の三百倍はあるんだからね?」
目から鱗が落ちた。そこまで鼻が優れているイメージが無かった。なら、餌が無くては魚が寄るはずもない。
「九条君って意外に天然だよね。夏場にそんな暑苦しい恰好したり、釣り針だけで釣りしようとしたり」
慌ててコートを脱ぎ、緋呂は悪態を突いた。
「うるさいな、放っておけよ」
「ほっときませーん」
軽やかな笑いを浮かべた直後、芽吹は神妙な顔つきで俯いた。何か言ったようだが、波の打つ音で緋呂には聞こえなかった。
「今、何て言ったんだ」
気になって問うものの、芽吹は逆に問いかけてきた。
「それよりさ、何で今日に限って九条君がいるの?昨日までいなかったじゃん、ここ」
訳を話そうにも、他人が信じるような内容ではないだろう。異世界に行って死にかけたと思いきや、今度は自分と同じ顔をした異世界人がいきなり自分がそいつと同一人物だなんだと言い始めるものだから、苛立って家のことを押しつけた、なんて誰が信じるのだろうか。信じたとしても、それはそれで当人の精神状態が心配になる。
考えあぐねた結果、緋呂は事実をかいつまんで話すことにした。
「なるほどね。つまり色んなことが嫌になって家出したと」
芽吹が脚を伸ばしてばたつかせる。
「そこまでアバウトに言っていない。俺は九条財閥がどうとか言って他人の気持ちも考えない両親や家の環境に嫌気がさして家を出たんだ」
「同じでしょ。要は思春期特有の自分探しなんだし」
「捉え方が大雑把すぎるぞ」
釣り糸は動きを止めたままでいる。水面を丹念に見つめる緋呂の耳に笑い声が聞こえた。
「堅物なトコも変わってないね」
芽吹の手の平が緋呂の手の甲に重ねられる。やけに顔が近いものだから、緋呂は視線を外して頭を仰け反らせた。
「ならラッキーだ。釣りって自分の心を見つめられるもん」
緋呂は訝しげに首をかしげた。ただ釣り糸を垂らして退屈に時を費やすこの行為に、そこまで高尚な意味があるのだろうか。
すると、芽吹の指が緋呂の手の甲をつねってきた。眉を潜めて睨むと、芽吹も同じ顔をしていた。
「嘘って思ってるでしょ。医者のタマゴが言ってるんだから信じなさい」
鳩に豆鉄砲とはこのことか。両手から釣り竿が滑り落ちかける。こんなに快活というか、奔放な少女が医者を志望しているとは、つゆほども思えないだろう。それでも正直半信半疑なのだが、わざわざ突っかかるほど子供ではない。
「医者の卵がそう言うなら信じてやろうじゃないか」
緋呂は釣り竿を握り直し、瞼を閉じた。まるで無間の暗闇に自分が吸い込まれていくようで、夏の朝だというのに冷や汗が止まらなくなる。
今にして思えば、途轍もなく異常なことをしていた。剣を振るい、人を斬ることに何の疑問も抱いていなかった。生きるために剣を握っていたと言えば聞こえはいい。けれど、それは結局誰かの痛みに鈍感でいるということで、つい昨日まではそんな残酷な選択ができてしまっていたのだ。
自分が嫌になる。ならば、この闇に溶けてしまっても構わないのかもしれない。クロスカリバーの無い自分がイデアコズモスに拘泥する理由は無い。行った所で何か変わる訳でもない。
──目の前にある、やんなきゃダメなことやり抜けよ。
緋呂の心に声が聞こえた。そうだ。ヴィ・マナファミリー。焼かれてしまった村の人々。記憶が逃げ足を引き留め、踵を返させる。何よりも、ローザに約束したはずだ。守ると。何も果たせていない。あの世界に行く算段も、行った後の計画もゼロだ。それでも、約束をゼロにはできない。
釣り竿が引き上げられた。海水を纏って鱒が姿を現した。コンクリートの地にヒレが打ちつけられる。目を開け、芽吹の方を見ると無邪気に拍手していた。
「凄い凄い!初めてで釣れるのは上出来すぎるよ!」
緋呂は胸の熱さを誤魔化すように微笑み、
「精神科医殿のおかげだよ」
それを聞いた芽吹は目を丸くして尋ねた。
「精神科医?アタシ輸血科なんだけど」
なんて紛らわしい言い方をしてくれるんだ、こいつは。胸の熱さもすっかり吹き飛び、緋呂は芽吹に突っかかろうとした。その時、瞳にとめどない海の煌めきが映った。宝石を散りばめたような景色にため息が漏れた。世界の美しさを初めて知ったような感覚だった。
同時に緋呂は思った。自分がいかに狭い『世界』しか知らずに生きてきたのか。外の『世界』を一度でも知ろうとしただろうか。外には流れる家々、暁の光、宝石の海。こんなにも鮮やかな世界がたくさんあるというのに、どうして目を向けようともしなかったのか。アドラのことが頭をよぎる。あいつにもあいつの『世界』がある。それを知らずに反発し続けるのは、少し醜いかもしれない。
緋呂はしばらく背の低い太陽を見て、呟いた。
「世界って、綺麗なんだな」
それを聞いていたのか、芽吹は温かに返した。
「そうだよ。とっても近くて、とっても綺麗なんだよ」
緋呂は釣り堀に背を向け、プラットホームへ足を進めた。セミの鳴き声が夏めく青空に響いた。
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