第二十八滴 緋呂、家を出る

 まずは耳を疑った。アドラと同じ。次に意味を疑った。それは気質なのか、それとも額面通りの言葉なのか。

「同じ人間ってどういうことだ」

「そのままの意味だ。俺とお前は同一の存在なんだよ」

 そして世界を疑った。

「あり得ないだろ、そんなこと」

 声が震える。

「俺も初めはそう考えた」

「訳がわからない」

「同じことを口走った」

「やめろ」

 緋呂は怒鳴った。赤の他人と自分が同一人物だと言われて、信じられるはずもなかった。たとえ自分と同じ顔をしていようと、同じようにオーバーロードの力を得られようとも。

 下から階段を昇る音がする。使用人の内の誰かに気づかれただろうか。咄嗟に、ベッドの下に身を隠す。

「緋呂様、どうなさいましたか」

 使用人の一人・夏原が勢いよく扉を開けて部屋に足を踏み入れた。

「いや、何もない」

「しかし緋呂様…」

「何もないと言っているだろう」

 アドラの静かな剣幕に夏原が気圧される。

「緋呂様がそう仰いますなら構いませんが…」

 言葉を詰まらせ、夏原は部屋を出た。やはり傍目から見ても瓜二つなようで、そこにいるのが緋呂ではない別人であることには全く気づいていない。

 まるで実験でもしているかのような思考回路が働いてしまったことに、緋呂は自己嫌悪を加速させた。割を食いやすい体質とはいえ、若い女性が威圧される結果になるのは好めない。だというのに、自分とアドラの容姿の見え方を試すような思考が一縷でも存在していたことに、胸を締めつけられる思いになる。

 深い闇の中、クロスカリバーが頭をよぎる。あれさえあれば、こんな『自分』も消せたのだろうか。不必要と認識した『自分』から喰ってくれるあいつならば、知らず人を利用するような自分の性をも喰い尽くしてくれたはずだろうに。

「いつまでそうしているつもりだ」

 アドラがベッドに顔を覗かせる。目が合った以上、聞こえないフリを決め込むこともできない。渋々ベッドの下から這いずり出た。立ち上がり、服をはたく。

「礼は言わないからな」

「期待してもいない」

 自然と眉が寄り合うのを感じた。

「何でそんなに偉そうなんだお前は」

「性なんだろう」

 淡々と答えるアドラに、緋呂の堪忍袋の緒は切れる寸前であった。散々振り回しておいて、自分と同一の人間だからと、罪悪感の欠片も持ち合わせようともしない。憤慨の炎が肌身から燃え上がらんばかりだ。どうにか、この男を苦しめてやりたい。緋呂は考えた。

 そうして、一つの『作戦』に及んだ。

「お前、俺の代わりをやれ」

 アドラの顔がようやく動いた。片眉を上げて聞き返してくる。

「藪から棒に酔狂な」

 ようやく一矢報いたことだけでも、緋呂は笑みがこぼれそうだった。いつまでも振り回されるばかりだと思うなよ。

「お前はどうするんだ」

「外で情報収集なり何なりとな」

 刹那、アドラは緋呂の胸ぐらを掴んだ。

「ふざけているのか。世界が違うというのに」

 そんなことは知っての上で言っている。緋呂にとって重要なのはそこではないのだ。

「大体、それが何のメリットになる。こうしている間にも、元の世界はどうなっているのか知れたことではないというのに」

 そう、損得などという打算ではないのだ。今の緋呂にとって重要なのは。

「俺は気に入らないんだよ。勝手に俺のことを知った気でいるお前が。だからお前に俺の気持ちを理解してもらう。幸い、見た目も似ているしな」

 アドラはため息をついた後、口を開いた。つくづくいけ好かない奴である。

「それで満足できるなら構わん。だが、なるべく茶番は手短に終わらせてくれよ?守るべき者が待っているからな」

「その守るべき者の気持ちを踏みにじってきたのはどこのどいつだよ」

 口を突いて出た言葉は、アドラを俯かせた。だが、アドラはすぐに顔を上げて言った。

「元より汚れ役は承知の上だ。どう罵ろうと結構。それでもローザだけは見捨てられん」

「ワガママだな」

「言えた立場か」

 ともあれ、こうして緋呂は暁光も射さぬ内に家を飛び出したのである。何年も住めば屋内の監視カメラの盲点ぐらいはわかるので、家出がどうの同じ顔の男がこうのと騒がれることもない。しかし、名家の長男というのは面倒なもので、本人が預かり知らぬ所でメディア単位で顔が割れていることがある。なので、蒸し暑い夏場にコートやマスク、ニット帽と、見ているだけで茹だるような恰好をしなくてはならないのだ。

 こうも暑苦しい恰好で街中を歩くのも違和感がある。ではどこに向かうか。釣り堀である。磯辺は夏場だろうと明朝の冷え込みは凄まじい。これだけの厚着をしようと違和感は無い程には。我ながら機転の利いた場所であると緋呂は得意になっていた。

 道中釣り具を買い、湾岸地域まで電車を使った。流れゆく景色を眺め、緋呂は自分が平均的な電車に乗るのは初めてであることを思い返していた。

 釣り堀に着くまで、緋呂は一番乗りを確信していた。真夜中に家を出て、ようやく空の色が変わり始めたかどうかといった時間帯に人がいるとは考えられなかった。しかし、いるのである。先客が。それも半袖半ズボンの、釣り具すら持たない少女が。

 一筋の光が少女の頬をかすめる。その少女は無邪気な子供の笑顔を浮かべていた。呆然とする緋呂に少女は声をかけた。

「おにーさん、アタシを釣りたい?」

 途端、服が暑苦しく感じられた。海は鱗のような煌めきを描いていた。

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