第二十七滴 汝、我が鏡像で実像
光が瞬くのが止んだ頃、ようやく緋呂は正常な視界を取り戻した。辺りを見回す。そこは森ではなく、ましてや合衆連盟本部などでもなく、ベッドや机のある見慣れた間取りの部屋だった。忘れようと努めてきた匂いが鼻孔を突く。そうしてようやく、自分がどこにいるのか気がついた。
緋呂は涙した。何か理由があるのかもしれない。けれど、それを見つける前にはもう涙の方が先に流れ出ていた。胡蝶蘭の花弁が手の甲に当たる。窓辺の月明かりは相も変わらず純白の花を透かす。
全ては悪い夢だったのだ。そもそもあり得ないだろう。異世界に飛ばされたり、そこで行方不明の祖父が突然現れて孫を陥れたり、何より瑞乃と瓜二つの人間がいるなんてことが現実であるはずがない。服装だってシャツのままだ。夢に違いない。外れたボタンの隙間から見える弾痕さえ無ければ。
緋呂は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。机の影がかかり、光は届かない。わかりきったことをわざわざ突きつけなくてもいいだろうに。後追いしてきた自責の念が胸を縛りつける。メシアと呼ばれ踊らされ、結局誰も救えていない。何もできないまま、訳もわからずこんな世界に戻ってしまった。だというのに、どこか安堵を覚えている自分が情けなくて仕方ない。錯綜した茨の蔓のような情動から逃げたかった。
「そうやってまたお前は現実から逃げようと言うのか」
声がした。顔を上げて振り向くと、いかにも位の高そうな男が月光に照らされていた。緋呂はこの男が誰かを知っている。
「どうしてお前がいるんだ、アドラ」
立ち上がって身構えることも考えたが、イデアコズモスでの戦闘の数々が脊髄反射に等しい勢いで思い出された。あの暗澹とした心を身体が刻んでしまっている。手を引っ込め、緋呂はただ睨んだ。
「さあな。俺だってお前のような陰惨な奴と好きで同じ所にいたくはない」
緋呂は歯を軋ませ、首の筋を張った。
「誰のせいだと思っているんだ」
アドラの顔の影が濃くなる。清潔な服装に鎧姿が重なる。あの赤さに共感を覚える。
「いつも上から目線で自分の非も認めないで説教ばかりして、何様のつもりだ」
カーペットを握りしめる。
アドラは目を伏せ、月の感触を確かめるようにしばらく沈黙していた。
「何か言ったらどうなんだよ」
吐き捨てるように呟く。散々偉そうな態度をとっておいて事実をぶつけたらそれか。ふざけるな。緋呂の体内は怒りの煙塵をくゆらせていた。
ようやく、アドラが口を開いた。
「俺をどう思おうと構わない。だが、そこで踞って何が変わる?あれだけの惨状を見て、あれだけの屈辱を経てもお前は見過ごせるのか?」
一理はあるだろう。しかし、それを認めては緋呂の中にある道理が崩れる。棚に上げられたまま、頷く訳にはいかないのだ。
「お前にそんなこと言える義理があるのかよ」
「ある」
即答だった。月はアドラの影を掻き消していた。
「俺はお前を巻き込んだ。オーバーロードの力を授けてしまった責任がある」
クロスカリバーが自分の力ではないことには薄々気づいていた。大体、血が剣になる力を持っているならずっと前から兆候のようなものが無くてはおかしい。それに、クロスカリバーの存在を体内から感じるようになったのは、スカルバーンに刺されたあの時が境だ。そして、クロスカリバーには別の意思が存在していた。違和感を無視するにはあまりに引っ掛かりが多すぎた。身体から離れた今、それが余計に理解できてしまう。
世界を支配するオーバーロードか。確かに腑に落ちる。メイデンの教えが絶対の規範として機能しているイデアコズモスにおいて、メイデン王国の人間は支配者と呼ぶ他ない。だが、それならメイデンの教えの根幹を貫く血の巫女がオーバーロードになっていなくては辻褄が合わない。
「どうしてお前がオーバーロードなんだ」
疑問を告げることを予期していたかのごとく、アドラは躊躇うことなく口にした。
「血の巫女、つまり母の血を飲んだ。どうやら男が飲んでも効果はあるらしい。その時にオーバーロードとして覚醒したようだ」
緋呂は絶句した。いとも簡単に語られた異様な行為に打ちのめされる。それを汲みもせず、アドラは淡々と喋る。
「だが、やはり男が血の巫女の血を飲むのは禁忌であったようでな。自我が保てないんだよ。川の水がどこから来たか、どの水が混ざり合ったか、わざわざ考えないだろう?同じことが俺の自我にも起きた。アドラとしての記憶はもう、数千年の出来事の一つとしか認識できなくなりつつある」
自分の肉体を動かす心がいない。こんなアンバランスをよく知っている。自分の懸けたいもののために自分が消えていく。ついさっきまでやっていたことだ。
「そこでお前を見つけ、決めた。自我の一端、オーバーロードの力を明け渡すと。お前は見事に受け取った。思えば、必然だったのだろう」
「何が」
「オーバーロードに目覚めたことだ。他の人間では不可能だっただろう」
「どうして言いきれる」
「俺とお前、元が同じ人間だからな」
胡蝶蘭の花弁が影に溶けながら、二人の間に舞い降りた。
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