第二十六滴 Sight of Rosa─薔薇に隠された胡蝶蘭─
瞳に映る世界は、まるで激流のようだった。最前線で諸国を恐怖に陥れていた闘鬼のスカルバーン、その正体が兄であったと知るや否や、今度はヒロがクジョウマサヨシに撃たれた。更にはヴァキュアスまで現れる始末だ。一連の光景に口を挟む余地もなく、ましてや介入することもできず、ただ己の無力感にうちひしがれることしかできなかった。
ローザは虚ろな目で世界を見た。生命の記憶を受け継ぐ役目の者が、今ある世界に取り残されているのだ。これ以上の皮肉があるだろうか。自嘲の笑みが溢れた。
「覚えているだけで何ができるんだろうな」
消え入る声で呟く。次第に明けゆく空に木の葉が透かされる。あの葉にも木を彩り、生かすという役目がある。たとえ記憶を刻んでいなかろうとも、そこに存在する意味を持っている。それに比べれば、自分など単に他人よりも記憶を所有している存在に過ぎない。いや、それさえも拒み、王国の系譜を途絶えさせてしまった落伍者だ。世界に刻まれるに値しない。
茫然自失のローザの耳に、クジョウマサヨシの声がつんざいた。
「ヴァキュアス。我ながら良いネーミングセンスだと思うよ。出会った頃の君はまさしく虚無そのものだったからね」
暁の風が首筋をすり抜ける。間延びした空気の音が消えると共に、ヴァキュアスは言った。
「そして貴公の言葉が我を我として顕現せしめた」
「でも君は私のもとをすぐに去った」
「其れが意思を持つという事であろう」
ヴァキュアスが何かを呟くと、剣が虚空から現れた。細身の剣は繭を纏い、紺碧の剣へと羽化した。暁光に照らされ、紺碧は奇妙な色を見せる。ヴァキュアスは華奢なその剣の切っ先をクジョウマサヨシに向けた。
「刻まねばと思った。我が存在を。貴公が世界にて忘却の名で呼ばれし身を。だが、その術は違えていた。否、貴公が違えさせたのだ」
ローザは目を見開いた。それはヴァキュアスをもクジョウマサヨシの被害者であった──だからとて許せるものでもないが──ことに限らなかった。空虚を連想させたあの声音に、明らかな憤怒が混じっていたのだ。
「謀った罪には此の剣にて罰を与えよう」
紺碧の剣が濁りを増す。空間が切り取られたように、ほんの刹那で老獪な体躯に迫る。剣がクジョウマサヨシの心臓を穿った、かに見えた。だが実際はどうだ、まるで初めから何も無かったかのごとく、紺碧の剣はクジョウマサヨシの身体を透き通っていった。
「言い忘れていたけど、この世界において私はイレギュラーなんだ。だから、この世界の万物が私に傷をつけることは不可能。無いことにされているものを壊せないのと同じさ。まさに君達の言うトリックスターそのものだね」
そう言ってクジョウマサヨシはヴァキュアスの傍を過ぎ、ローザの方へ近づいた。それを察知してか、すかさずアドラはクジョウマサヨシの前に立ちふさがった。
「ローザに寄るな」
「相手をできるのかい?今の君に」
すると、突然アドラは顔を覆って唸り始めた。微かで不完全な日光が、踞る身体を点々と照らす。
「苦しいだろうね、親の血が暴れるっていうのは」
その意味をローザが呑み込む前に、アドラは疑問をぶつけた。
「何故お前がそのことを知っている」
生命の記憶。
「簡単なことだよ。私は世界の外にいる。物事っていうのはね、遠くから見た方が色々わかるのさ」
受け継げるのは女性のみ。
「戯言を」
血に触れることで記憶を覗き、血を飲むことで存在を受け継ぐ。
「要は、私は君達の全てを理解できるんだ。世界のルールも破れる。こういう存在を何と言うか、わかるかい?──神だよ」
テセウスの船。改修を繰り返した船は、元あった船と同じものと呼べるのかという問いだ。
なぜ一度も聞いたことの無いこの言葉を理解しているのかはわからない。しかし、ローザの頭に語りかけてきた知識はその言葉を導きだした。
そうしてローザは悟った。アドラは、兄は母の血を飲んだのが災いして、自己の存在が混濁してしまっているのだ。兄と母、そして数千年の時の狭間で遊離した魂の名前がスカルバーンであったのだ。
世界はこんなにも残酷な運命を兄達に背負わせるのか。あまりにも理不尽ではないか。苦しみだけを教えておいて、抜け出す術を与えてはくれない。世界が非道だからヒロは胸を貫かれ、兄は仮面を被らなくてはならなくなった。
「だけど神っていうのは色々不便でね、自分じゃ何もできないんだ。いないことにされているからね。そこで欲しかったのがロボットなんだ。ロボットならこの世界のルール内で動けるからね。それも、ここにいる親衛隊みたいな凡庸なのじゃない。君達の力全部を持ったロボットが欲しかったんだ」
親衛隊がヘルメットを外す。全員、意思など持たぬ顔つきをしていた。その中には、アズマ地方で出会った運転手の顔もあった。
「ならお前は愚かだな。そのロボットを撃ってしまった」
「いいさ。あそこに落ちてあるクロスカリバーさえあれば誰でも構わない。自分が消えたくないからってオーバーロードの力を押しつけたんだから、君が一番よく知っているはずだよ?」
アドラは閉口した。図星だったのか。花の根が大地から無理やり引き剥がされるような、惨憺たる痛みが心臓の奥底を走った。
「ともかく、緋呂(ロボット)を繋ぎ止めるのに必要だったのが君の妹って訳だよ」
声と共に、頭を鷲掴みにされた。背後からアドラが攻撃を繰り返すが、案の定ことごとく透き通ってしまう。
「君はなんて憎い顔で生まれてきたんだい。他人の孫の形を勝手に借りてさ。この世界の神様気取りなのかな。瑞乃の脳内をベースにしたから肖ったのかな。それでできることといったら覚える程度のことだろう?誰でもできるよ下らない。ああ、つまらない存在だよ、君は」
自分の中で何かが切れる音がした。怒りではない、憎しみでもない、もっと深くで張り詰めてあった糸が途切れてしまったのを確信した。同時に声がした。
──虐めないで。
あとは身体が勝手に動いていた。別の誰かが、特別保護室で聞いたあの声が骨と肉を動かしていた。
誰なんだ、お前は。
──私は神様。
「なんだ、その眩い光は」
「一体、ローザに何が起きているんだ」
──そのまま手を伸ばして。それから、緋呂を呼んで。
言われるがまま、ヒロの名を呼んだ。その時、奇跡としか形容できない出来事が起きた。ヒロの身体が分解されると、風を引き連れ、ローザの傍で再び身体を取り戻した。そして、瞼が開かれた。太陽がようやく顔を現した。長い夜が、やっと明けた。
直後だった。今度はヒロとアドラの身体が輝きを放ち始めた。神を内に秘めているからなのか、次に起きることを察することができてしまった。
身体の自我を奪い返し、アドラの方へ手を差しのべた。だが、二人は瞬きを伴ってこの世界から消えた。朝露が森羅万象を湿らせた。
何が起きたのか理解はしていた。だから、この胸の空白は安堵だと言い聞かせる。けれど、瞳に映る景色は、夜が明ける前よりも暗く見えた。
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