第二十五滴 闇の中で見た君の夢

 闇の中で夢を見た。安らかで温かく、懐かしい心地が心身を染め上げる。永久に溶けていく前の、最後の感触。人はそれを『走馬灯』と呼ぶ。


 南高から射す陽光に花々が活気づく。中でも胡蝶蘭は格別の生命力を誇示していた。連なる花弁はまるで万華鏡のごとく、日差しを煌びやかに彩る。胡蝶蘭の前で、少女がしゃがみこんでいた。太陽がそよ風にも似た柔らかな髪を透かす。緋呂はあの少女のことを生まれた日から知っている。

 物心を得るかどうか、そんな年頃の緋呂の席から一つ空けて、九条瑞乃はこの世で産声を上げた。家族が増えるということを緋呂の幼心は理解しきれなかった。それを感ずるようになったのは、母が瑞乃共々病院から戻って生活をするようになってからだ。

 使用人達がミルクを溶かしたり、瑞乃をあやす光景が見られるようになった。甲高い泣き声が夜中に聞こえるようにもなった。何より、親はともかく、周囲が自分に割く時間が露骨に減った。兄とはいえ、まだこの地を踏むには拙すぎる年頃の緋呂にとって、そうした状況は傷心を促した。果たして自分は愛されているのだろうかと、二歳児が哲学せねばならなかった。

 だから最初は瑞乃を憎んだ。自分から皆を奪ったと本気で恨んだ。消してしまえと考えたのは、ふと殺人事件にまつわるドキュメンタリーニュースを目にした時だった。そうか、こんな手があったのかと驚嘆してしまった。今でも思い出すと悪寒が走る。自分がいかに邪悪な存在か痛感させられるのである。

 後日、緋呂はそれを真似て、瑞乃の部屋へ忍び込んだ。緋呂と瑞乃の部屋は隣接していたので、使用人の目を盗むのは容易だった。揺り篭に近づき、緋呂は厨房から持ち出したナイフを振り上げた。しかし、視界に飛び込んだのは自分から全てを奪った悪魔ではなく、安らかに眠る柔肌の赤子だった。天高く掲げられたナイフは震え、足元へ落ちた。緋呂は自らの愚かさと、足にナイフが刺さった痛みで泣き崩れた。涙が瑞乃を包む布に一つ、また一つ落ちる。

 皮膚を震わせる緋呂の頬に、矮小な、しかし巨大な熱が触れた。潤んだ瞳をおもむろに動かす。瑞乃の手だった。きっと偶然なのだと思う。けれど、その時は本気で馬鹿な自分を許す器量を持っているのだと信じ込んだ。信じ込めるほど、熱は強くて優しかった。

 この時初めて、緋呂は妹に出会えたのだ。同時に誓った。一生を懸けて守ろう。たとえ何があっても、絶対に。生まれ落ちてからわずか二年にして、緋呂は人生の指針を定めたのだった。罪滅ぼしという生き方を。

「お兄ちゃん。この花、凄く綺麗」

 胡蝶蘭を指さし、目を輝かせて緋呂の方を見る。瑞乃に頭の高さを合わせ、微笑みを作る。胸と喉の狭間で、棘の刺さった痛みが響いた。緋呂はこの顔の瑞乃が何よりも好きだ。妹の喜びが愛くるしいから。そして、この顔の瑞乃が何よりも嫌いだ。妹への後ろめたさが苦しいから。

「まるで絵本のお花みたい」

 再び胡蝶蘭を見て、瑞乃が満面に笑みを浮かべる。絵本、と言ったら瑞乃の愛好する御伽噺のことただ一つを指す。読んだことが無いのでタイトルはわからずじまいだが、とにかく瑞乃はその本が大好きだった。毎日、本にまつわる話をしてくれたと記憶している。

 ある時は、

「お兄ちゃんは薔薇の騎士様にそっくり」

 と弾んだ声で言い、ある時は、

「悪い王様が来たら守ってね」

 と、よほど悪い王様の場面が怖かったのか、泣きそうな顔で緋呂の部屋のベッドに潜り込んだりもしていた。

 一つ一つの出来事に笑い、泣く、そんな瑞乃が大好きだった。自分が持っていないものを持っている瑞乃が眩しかった。惨めな兄にもさりげない優しさを与え、いつも笑顔を見せてくれた。今もこうして、下らない棘の痛みを覚える兄の手を握って、

「私、みんな大好き。お花も、お兄ちゃんも」

 と微笑んでくれる。瑞乃はこの世界を愛している。この世界で生きていることを謳歌している。正しい生の在り方を示すなら、瑞乃を置いて他にいないだろう。こんなにも、光輝く笑顔をしているのだから。

 だというのに、緋呂は情けなかった。我儘だった。瑞乃の愛情が森羅万象に向いていることを是としきれなかった。心のどこかで、瑞乃が自分を特別扱いしてくれないかと懇願している自分がいたのだ。誰もが『九条』というフィルターで『緋呂』を取り残す中、瑞乃だけはどうか『緋呂』という個を見つめていてほしいと望んでいたのだ。

 誰にも渡したくない。せめて、あの時の罪に報いるまでは。──何故、こんな気持ちを思い出してしまう?捨てたかったから捧げたというのに。いらないものから失わせていったはずなのに、どうして胸が軋むようなこの気持ちが未だに残っている?

「ヒロ、ヒロ」

 誰だ、眠りを妨げるのは。眠らせてくれ。もう嫌なんだ。何もかも。瑞乃を守りきれなかったのに生きている意味なんて無いじゃないか。ようやく死ねるんだから、やっと瑞乃に会えるんだから、放っておいてくれよ。

 しかし光は容赦なく、緋呂の目を開かせた。次に見た光景は緋呂を生に留めながらも、時が止まったかのように生命の機関が動くことをしばらく忘れさせた。凶弾に貫かれた緋呂の胸に、煌めく手が押し当てられていた。その主はローザであった。

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