第二十二滴 仮面の向こう

 本当はもう、仮面を外したくなかった。そんなことが起こらずに済めば、どれほどよかったことか。だが、彼がメシアの肩書きに狂わされた今、もはや死人として傍観することは許されぬ。深紅の骸として導くだけではいられないのだ。

 スカルバーン、いや、アドラはローザの方を向いた。あの日、エル王国に城と両親を奪われた後、妹とも離ればなれになってしまった。それからというもの、どれだけの月日が経ったと言うのだろう。アドラはメイデン崩壊の日、エルに忠誠を誓った日を思い出していた。


 母の死はアドラに何事にも代えがたいほどの残酷さ、悲痛さを味わわせた。何故このような惨状が前触れもなく来なくてはならないのか、理解できなかった。

 涙が頬を伝う。それをアドラとは異なる、繊細でたおやかな手が拭った。手の先を目で辿っていく。母だった。まだ、微かに息を残していた。言葉も出ないほど嬉々としたアドラに対して、母は開口一番、

「私の血を飲んで」

 と告げた。アドラには訳がわからなかった。血の巫女となれるローザならともかく、自分が母の血を飲む意味が見つからなかった。理由を尋ねようとしたアドラの心中を見透かしたように、母は微笑んで続けた。

「前例は無いけど、きっと生命の記憶を受け継げるはず。だって、あなたは私の息子なんだから」

 理屈で考えれば確かにその通りだ。男に生まれようと女に生まれようと、父と母の半分ずつで身体が成されている以上、血筋に依る生命の記憶の伝承がアドラにできない保証は無い。だが、いくら身体を成す方法が同じであろうとも男では妊娠できない。生命の記憶の伝承も同じ理屈なら、アドラでは決して不可能な業である。

 二の足を踏むアドラの震える身体に、母は力無く寄りかかった。

「ごめんね、大きなこと押しつけちゃって。本当はもっと、楽な生き方させてあげたかったなぁ」

 母の身体が徐々に冷たくなるのを感じた。今度こそ本当に、死んでしまったのだ。早くに父を亡くしてからずっと、傍にいてくれた母までもがこの世から失われたのだ。

 できることなら絶望に泣き尽くしたかった。けれど、目の前の死体とローザの存在がアドラを現実に引き戻す。そして、現実がアドラの胸の内から躊躇いを消した。アドラは母の身体から流れる血を飲んだ。一滴も残さず、がむしゃらに飲み干した。せめて、自分の体内で生きてくれれば。淡い期待だけが、アドラを突き動かしていた。

 最後の一滴が喉元を過ぎた刹那、アドラの身体に異変が生じた。耳鳴りは凄まじく、脳内を雑音がつんざき、手足の震えは止まらなかった。様々な思念に、『自分』が押し流されそうになる。神経も麻痺するほどの激痛に晒されながら、アドラは笑みを浮かべずにはいられなかった。成功したのだから。血の巫女の力を得られたのだから。母が自らの内に宿ったのだから。

 直後、アドラはヴァキュアスの存在を思い出した。激痛を引き連れ、部屋の外へ踏み出す。視界はただ一つの悪鬼羅刹のみを捉えていた。アドラは素早く駆け抜け、ヴァキュアスの背後に拳をぶつけた。ヴァキュアスがおもむろに振り向く。そうだ、奴が母の命を奪った。アドラは声を荒げる。

「母の仇、晴らさせてもらう」

 ヴァキュアスは僅かにアドラの方を向き、意味深長に口の辺りを指でなぞった。

「王子よ、名を名乗れ」

「アドラ。お前を倒す名だ」

 間髪入れず答える。話をするつもりなど無かった。一刻も早く、妹の前に立つ脅威を退けたい。ただ、それだけを求めた。

 その時だった。再び、頭が割れんばかりの激痛に見舞われた。苦悶に倒れ伏し、耳を塞ぐ。とめどなく流れる雑音、張り裂けそうな肌、おぼつかない視線。ヴァキュアスが近づいてくる。殺される。アドラは確信した。しかし、ヴァキュアスは剣を納めた。

「何の真似だ」

 喉が焼け、声が思うように出ない。立ち上がろうにも、まるで身体がブリキになったように動かない。そんなアドラに何故トドメを刺さないのか、理解ができなかった。するとヴァキュアスは、

「血の巫女の血を得たか」

 と言った。こちらの事情を知り尽くしているかのように。アドラは絶句した。同時に、疑問を強く覚えた。どうしてヴァキュアスはアドラが血の巫女、つまり母の血を飲んだことを知っているのか、そして今起きている異変を見透かせているのか。言葉にしようとする前に、ヴァキュアスは話を進めた。

「自我の融合が行われているのだ」

 いよいよ、アドラの疑念は最高潮を迎えた。前例すら無かった事象を理解している。深く掘り下げようと思わない方が無理がある。

「女は血の器となれる。だが、男は不可能だ。元より、男の身は与える業に長けている。受け取ることが得とはならぬ」

 道理である。生殖はまさにその典型で、男が精を与え、女が子を宿す。邪智暴虐の限りを尽くすばかりではないということか。ならばこそ、より厄介というものだ。アドラは警戒心を更に高めた。

「どうして知っている」

 するとヴァキュアスは当然のように言ってのけた。

「我は此の世界の神棲む所より流れ着いた者。故に、総てを識る」

 アドラの疑念は憤怒が取って代わった。奴は自分の居場所を踏み荒らし、あろうことか神を騙ったのだ。

「神ならば何をしても許されると思ったか」

 だが、ヴァキュアスから返ってきた言葉は意外なものであった。

「否。我は神にあらず」

 アドラには訳のわからない弁明にしか聞こえなかった。

「さっき言っただろ、この世界の神が棲む所からやって来たって」

「ならば貴公は此の世界に棲む者全てが同種と断ずるか。花も人も同種であると」

 閉口せざるを得なかった。冷や汗が額に浮かぶ。奴はこちらの疑念を見透かしている。アドラは初めて、他人に恐怖を覚えた。それでも、アドラの口は必死に動いた。

「だったら何のためにこんなことをしている。俺達を襲って、何がしたいんだ」

 暫しの静寂が漂った。ようやっと、ヴァキュアスが話を切り出した。

「我が存在を刻み込む。其の為に我は求む。闘争を、血の巫女を。そして、覇王の力を」

 覇王とは、オーバーロードのことだろうか。ならば、奴の目的は自分の名前を歴史に残すために剣を握り、メシアの伝説を鵜呑みにして母を殺したというのか。

「ふざけるな。そんなことのために母さんは死んだのか」

 怒鳴り声をも軽く受け流し、ヴァキュアスは語り続けた。

「血の巫女は神を内に秘め、目覚ましかねぬ。しかし、其れは同時に救世主と覇王を呼ぶ。此れをペテン師に渡してはならぬのだ」

 我慢ならなくなったアドラはヴァキュアスの懐にしがみつき、剣を奪おうとした。

「下らない長話はここまでだ。お前を殺してやる」

 ヴァキュアスはアドラの方を見ることなく、呆気なく振りほどいた。吹き飛ばされ、かろうじて立ち上がるアドラに再びヴァキュアスが近寄り、目線を合わせて言った。

「アドラ。貴公には我が片割れの呼び水となってもらおう。我と共に戦え」

 全くもって意味のわからないことだった。一体、これまでの何を汲み取ればそのような発想に至るのか、まるで見当がつかなかった。だから、答えは決まっていた。

「断る。他人の親を殺しておいて言うことか」

 予期していたのだろう、ヴァキュアスは尚も淡々と喋る。

「此の世界が滅ぼうと構わぬのなら、一時の感情に行為を任せてもよかろう」

「どういうことだ」

 ヴァキュアスの誘いを断れば世界が滅ぶ。何の因果関係も無いことだ。だが、心根に眠る何かが、アドラの頭にヴァキュアスへの質問を要求した。それを受けヴァキュアスは、

「ペテン師は自らが神となるべく、血の巫女を利用せんと目論んでいる。此れを止めるには我が片割れの存在が不可欠なのだ」

 と、かつてないほど強い語気で言った。虚無を連想させるほどの物質をも恐怖へ駆り立てる存在に、アドラは気圧される他なかった。

 どうやら、嘘はついていないようだ。それに、血の巫女を狙っているということは、すなわちローザの命が危ないということだ。だが、そのために母を殺したヴァキュアスに手を貸すのは心が許さない。しかし、大局を見よ。世界そのものが滅びかねない事態が起きようとしているのだ。国は再興できるかもしれないが、世界は一度壊れれば二度と戻らぬ。

 すると、アドラは気づいた。自らの生こそが最も邪魔であることに。善人気取りで憤慨していても、結局は自分の小さな誇り可愛さに言い訳しているだけだと気づいたのだ。でなければ、こんな好機を逃す理由がどこにある。敵に命を狙われることなく、敵の懐に飛び込める好機に目を背けるのは愚かしい。戦果を上げれば地位も上がる。そうすれば行動の自由は更に広がる。それはつまり、ローザを守ることにも繋がるのだ。この心を殺して世界と妹が守れるのならば安いものだ。

 アドラは膝をつき、口を開いた。

「わかった。お前に、いや、あなたに仕えよう」

 ヴァキュアスはアドラの額に手をつけ、力を込めた。

「この時より、貴公はスカルバーンである。相応しい装具を現すがよい」

 すると身体から血が噴き上がり、マゼンタの焔と変わった。放たれた焔が城を瓦解させていく。焔はやがて深紅の鎧となり、仮面に顔が包まれた。

「では行くぞ、スカルバーン」

 ヴァキュアスが言うや否や、スカルバーンはエル城の中に転移された。禍々しいオブジェを見回し、スカルバーンは自分がエルの人間となったことを、家族を裏切ったことを改めて思い知った。だが、後悔など無かった。アドラなど、初めからいなかったのだ。今、ここにいるのは主君も家族も欺き、世界と妹の見えない盾にならんとする男、スカルバーンである。だから、代わりに誓った。

「私は、スカルバーンだ」


 ローザが、アドラに抱きついた。

「生きててよかった。本当に、よかった」

 アドラは背中に手を寄せようとした。だが、深紅の鎧に覆われた自分の姿を見て、やめた。その手はローザを押し退けるために使った。

「アドラは死んだ。今ここに立っているのは、亡霊に過ぎない」

 そしてヒロに歩み寄り、何度も拳をぶつけた。血が出ようと、骨が砕かれようと、構わず殴った。ローザが制止せんと背後からしがみつく。だが、アドラの手は止まることを忘れた。

「お前なら、ローザを守れると思った。だから力を目覚めさせた。なのに、お前はペテン師─トリックスター─に踊らされ、道化となり、果ては心を失った。一番失くしてはならないものを、お前は手離した」

 もう顔も見たくない。拳を高々と振り上げる。その間に、ローザがヒロの身体を庇うようにして覆った。すると、ヒロは震え震え立った。それからは瞬間だった。アドラの身体が地に伏し、今度はヒロの拳がアドラの顔面を打ちつけた。

「だってつらいんだよ。悩むのは。心が痛くて仕方ないんだよ。どんな気持ちになっても空腹にはなるし、眠くなるし、そんな身体も嫌で嫌で仕方ないんだよ。何より、そんな自分が嫌すぎるんだよ。瑞乃が感じられないものを感じてしまう自分が、嫌いで嫌いで堪らないんだよ」

 殴打ばかりではない歪みを顔に出し、ヒロは拳を何度も何度も振りかざした。上から落ちてくる滴が顔を濡らす。つらいのはわかっている。だが、そのままではトリックスターの思うツボなのだ。決して世界を、心を乱されてはならないのだ。クジョウマサヨシに。

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