第十九滴 Sight of Rosa─声、そして迎える者─

 声が聞こえる。他の誰もいない、この部屋の中から。耳を塞いでも流れ込む、この声の正体を知らない。けれど、何故か聞き覚えがある。それはどこかで会ったことがある、という範疇を遥かに超えた頻度で記憶されている音なのだ。正体を知りもしないのに。

「誰だ」

 と尋ねても、声は反応を示さない。一方的に話しかけてくる。『会いたい』と、切なる音を込めて言う。

「一体、誰に会いたいんだ」

 激しい痛みが頭を襲う。手足を必死に動かす。閉じられた扉をひたすら叩く。ここから逃げ出したい、心身を蝕まんとするこの声を掻き消したい、ただそれだけだった。

 やがて、あの声は聞こえなくなった。代わりに、踞る身体に嗄れた声が響いた。

「何事だ、ローザ」

 クジョウマサヨシは扉に張られた監視用のガラス越しにローザを見つめ、溜め息混じりに、

「どうしたというんだい」

 と言った。ローザは今、特別保護室の中に入れられている。先日の無断外出を避けるために、クジョウマサヨシが取った措置である。

「全く、手を煩わせないでほしいな」

 呆れた視線をぶつけ、クジョウマサヨシはその場を去る。家畜のようだとは思う。しかし、この身はメシアと人々との架け橋となることを期待されている。なら、多少過激な扱いになるのは仕方ないことかもしれない。

 それにしても『メシア』とは誰のことなのだろう。クジョウマサヨシの話を聞く限り、世界に平和をもたらす存在であることは間違いないはず。ヒロもまた、メシアのために戦っているのだろうか。そのために、また何かを失おうというのか。失うことが怖くないなんて、嘘に決まっているはずなのに。あの日の光景が甦る。背後で轟く爆音。砕け散った家。一夜にして、多くを失った。あれがつらくないなんて、絶対にあり得ないのだ。

 それでも尚交えるのか、剣を。あの深紅の骸骨と。奴は自らを母ではないと否定した。だが、あれが母でないはずがない。生命の記憶を辿れるのは血の巫女のみ。他に例など聞いたこともない。しかし、あの態度が嘘をついている者のものとは思えない。本当に母ではないのか。不安が押し寄せる。母は殺された。ヴァキュアスの剣を滴る赤い液体を忘れはしない。わかっていても、淡く期待してしまう。あんな芸当を見せられて、どうして母ではないと言えるのか。残っていてほしいのだ。たった一つでも、失っていないと呼べるものが。だから、どうか生きていてほしい。

 温かく、儚い思い出を懐古する。母は強く、たおやかな女性だった。血の巫女として数千年にも及ぶ生命の記憶を身に宿し続けた。自分のものではない記憶を体内に保持することの壮絶さは想像に難くない。それでも母は、一度も弱音を吐くことはなかった。常に民の手本であろうと尽力してきた。そんな背中を見て育ってきたのだ、この世界からいなくなったことを認めたくない。

 苦悩の内にローザは瞼が重くなり、眠りについた。陽も月も無い部屋で、こんなことが何日も繰り返された。まるで、時がそこから進まなくなったかのように。

 そんなある日、壁から破裂音が聞こえた。仰け反った身体を寄せ、恐る恐る開いた穴に顔を覗かせる。すると、そこに立っていたのは深紅の鎧だった。

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