第十八滴 青写真を破ってでも
帰還した緋呂の心に達成感などなかった。エル王国の部隊を討伐する目的でナント国へ行ったのに、肝心の国は既に陥落していて、やったことといえばエルに買われた現地人を保護しただけだった。つまり、何もできなかったのだ。
正義が格納庫に来て、
「お疲れ。よくやってくれた」
と労う。何もできちゃいないのに。緋呂は消え入る声で呟いた。
「帰って早々申し訳ないが、さっそく次の任務についての会議を…」
「嫌です」
食い気味に言った。正義は目をしばつかせ、耳に手を当てる。
「聞き違いかな。もう一度言ってくれないか、流血騎君」
「もう、嫌なんです」
血色を変え、正義は緋呂を睨みつけた。
「君はメシアだろう。瑞乃の理想を叶える気は無いのかい」
緋呂は心中を駆け巡っていた正体不明の激流を言葉に被せた。
「何をやれたっていうんですか。もう支配されてしまった国に行って、部隊はもう別の所に移動していて、国を取り返すことすらできなくて。何もできなかった」
格納庫全域に音が響く。緋呂は吐き捨てるように続けた。
「メシアなんて所詮、伝説でしかないんですよ」
すると正義が詰め寄ってきて、胸ぐらを掴んだ。
「二度とそんなことを口にするな。君がどう思おうと勝手だが、君は選ばれたんだ。責任は果たしてもらう」
皺だらけの手を振りほどき、緋呂は怒鳴った。
「じゃああなたが戦ってくださいよ。尻拭いにもならないようなことさせて、どう責任を果たせというんですか」
正義も負けじと声を荒げた。
「できるなら既にやっている。私では無理だから君に託しているんだ」
「銃を持っているのに?」
緋呂は薄々感づいていた。イデアコズモスにはどういう訳か銃器が存在しない。正確に言えば、合衆国連盟親衛隊以外は銃器を見たことすら無さそうなのだ。もし銃器があるのなら、圧倒的な力を振るっているエル王国で使われていないのはおかしい。三銃士と呼ばれる重要人物はおろか、自らを王と名乗ったヴァキュアスさえも所持していない状況は明らかに変だ。極めつけは親衛隊を確認した直後にヴァキュアスが撤退したこと。銃を見て判断したと考えて間違いはない。つまり、イデアコズモスの人物だろうと銃は効く。なのに、何故それを使おうとはしないのか。緋呂の中で懐疑は強まっていた。
「引き金を引けばいい話でしょ。それで奴等は殺せる。あの時、奴等が退いたのはそういうことのはず。やれない理由がどこにあるんですか」
すると、正義は大きなため息をついた。まるで言葉を出すことさえ億劫になるほどの蒙昧さにぶつかった時のように。
「君は勘違いしている」
正義の態度に緋呂は憤慨の一つでもぶつけてやろうとしたが、勘違いの正体を知りたい一心でどうにか衝動を抑えた。お構い無しに正義は続ける。
「あの銃にマトモな殺傷能力なんて無い。当然の話だ、元々無いものを見よう見まねで造らせたんだから。もうバレていると思うよ。だから敢えて見逃されたんだろう。相手にする意味が無いからね」
緋呂は絶句した。まさかハリボテの武装で凌いでいたとは思ってもみなかった。考えてもみれば、メイデンの教えが絶対的に普及していた世界で武力が育つはずもない。それに、銃もあくまで元いた世界の道具であって、イデアコズモスの物資で再現できるとは限らない。そうした事情が重なったから、わざわざ戦士団なんてものを作ったのだろう。確かに、初歩的な勘違いである。
「わかってくれたかな。これは君にしかできないことなんだよ。たとえ尻拭いにもならないことをしていたとしても、いつかは実を結ぶ。向かう先が変わらないなら、必ずゴールに辿り着く。私はそう信じている」
正義の瞳は吸い込まれそうなほど深く、純粋だった。胸のほとぼりが冷めていく。息を大きく吐いて言った。
「わかりましたよ」
もう一度口を開けば、間違いなく神経を逆撫でする言葉しか出せないだろう。緋呂はそれ以上、何も言わなかった。
自室へ向かう。後ろから別の靴音が聞こえてきた。振り向くと、カットラスが棒立ちのまま、何か言いたげな顔で緋呂のことを見つめている。
長い沈黙の後、カットラスはようやく喋りだした。
「…来てほしい」
と言うや否や、突然手を引いてどこかへ歩き始めた。いくら呼びかけても返事せず、細腕からは想像もつかぬ力でひたすらに引っ張り続ける。
何も言わず、カットラスは立ち止まった。勢い余って前のめりになる。顔を上げると、そこには大勢の人々がいた。生活用品を散乱させ、老若男女が部屋の中で密集している様子は、さながら難民キャンプのようだった。
「こんな部屋、あったのか」
「…皆、居場所が無い。…国が滅びたり、家が無くなったり。…だから、ここで暮らしてる。…私も、そうだった」
カットラスの瞼が微かに揺れる。
「…エルに全部取られた。…パパ、ママ、腕。…もう取られたくないから、名前の代わりにこの腕をもらった。…もう、何も食べられないけど」
傷だらけのカッターを地面に擦らせ、淡々と語る。緋呂は腹に手を当てた。そういえば、最後に空腹になったのはいつだろうか。
緩慢な動きでカットラスは緋呂の方に振り向いて、僅かな熱の込められた声で口走った。
「…私、ううん、皆、ずっと待ってた。…メシアを。…つらくない世界にしてくれるって、ずっと信じてきた。…だからやめないでね、隊長」
一呼吸置いて、カットラスは呟いた。
「…なりたくて、なれるものじゃないから」
緋呂の前に老人が近寄り、跪く。
「あなたがメシアか」
と、震え震え手を握り、涙ながらに言った。
「毎日、祈り慕い申しておりました」
ふと周囲を見渡す。全員、余すことなく頭を垂れていた。イエスを目にした使徒のように。緋呂はようやく自覚した。もはや、エゴの範疇など遥かに超越した戦いであることを。自分が背負っているのは、瑞乃の理想ばかりではないことを。そして、それは決して下ろせない荷物であることを。何があろうと、必ず背負い進まねばならないのだ。たとえ、『自分』という荷物を切り捨てることになろうとも。
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