第十五滴 胡蝶蘭に背を向けて
何色とも、何の形とも形容できぬ物体は自らをヴァキュアスと、世界の統治者と名乗った。クロスカリバーを持つ手が自然と離れてしまう。奴は心の底に昔からいた気がする。そんな相手と戦ってはいけないと本能が語りかけているのか。それとも、ヴァキュアスの力によるものなのか。何であれ、道理が通じる相手でないことは瞬時に悟った。
「流血騎、と言ったか」
「自称してはいない」
緋呂の返答にヴァキュアスは笑みを溢した。表情など存在しないのだが、明らかにそういった雰囲気を醸し出していた。圧倒的強者のみに許される余裕、というものか。反吐が出る。
「三銃士が一人、カゲリを屠るは上出来。果てはスカルバーンに傷を負わせるとは、これ大義なり。どうだ、我が矛とならんか」
「断る」
即答だった。
「俺はお前達全員を殺すために剣を握った。手を組むつもりは毛頭無い」
尚もヴァキュアスからは怒りも、軽蔑も、何も感じられなかった。貼りつけたように、余裕だけがヴァキュアスの身体から漂っていた。
「救世主と覇王の力、合わされば森羅万象が手に入る。この黄泉も、現世も、全てが手中に収まるのだ」
何とも陳腐な呼びかけに、緋呂は肩透かしをくらった。胡散臭い話を持ちかけて自陣に引き込もうとするなんて、まるでゲームや絵本の悪者ではないか。根拠も証拠もない利益で一体誰が釣れるというのか。
「大仰な報酬を出せば俺が味方すると思ったか?バカな王様だな、お前」
クロスカリバーが振り上げられる。大剣はヴァキュアスめがけて一直線に下ろされた。しかし、クロスカリバーの刀身はヴァキュアスの身に触れることなく止められた。まるで、見えない壁に阻まれたように。事も無げにヴァキュアスは緋呂の耳元で囁いた。
「妹を救えるとしても、か」
動揺が走った。
「なぜ瑞乃のことを知っているんだ」
髄を迸る激震の感覚を拒むように、緋呂はクロスカリバーをヴァキュアスへ押し込んだ。だが、架空の壁が厳然と立ち塞がった。
「其れこそが我が力、我が性」
淡々と呟くと、ヴァキュアスは剣を呼び出した。取り出したのではない。全くの無から、紺碧に照る剣が出てきたのだ。紺碧の剣を持ったヴァキュアスは、聞き慣れた長文を唱えた。
「世に刻むは雲が如く揺蕩う我、世に示すは我が存在。汝忘るることなかれ。汝消ゆることなかれ。刃の痕に我残ることを祈らん。虚無なる繭とならぬことを願わん。刻雲世刃─コクーンセイバー─の名の下に」
すると、コクーンセイバーの細い刀身に鎖が巻きついた。たちまち、灰色の繭が形成される。繭は徐々に溶け出し、鋭さを持った。青天の霹靂のような、濁った紺碧の剣が孵った。
一部始終に緋呂は目を見開いた。様相は異なるが、その仕組みはクロスカリバーと同じであった。ただ、刀身に血の管が刻まれるか、刀身が繭に包まれるかの違いでしかなかった。
「驚いているようだな、流血騎。だが、此の事実が我との真実。我が力と交わる運命なのだ」
違う。緋呂は連呼した。今、奴が起こしたことの一切を否定したかった。命を尊ぶこともできない悪魔と同質の力を持っている。そんなことを認めたくなかった。
赤らみが最高潮に達したクロスカリバーをぶつける緋呂を、ヴァキュアスは呆気なく弾き返した。うつ伏せになった緋呂の額に、コクーンセイバーが突き立てられる。
「選べ。我が矛となるか、此処で果てるか」
緋呂に恐怖は無かった。代わりに、絶望が心を覆った。何をしても通用しないのではないか。深淵を覗き、手を伸ばした時のような果てのなさと諦観が身を毒した。
返事の無い緋呂をコクーンセイバーが貫こうとするその時、銃声が鳴った。
「ペテン師風情が茶々を入れてくれる」
と、不満を露にするとヴァキュアスはコクーンセイバーを引き、悶えるスカルバーンの傍に後退した。
「流血騎。刻むのだ、我等が宿命を。そして気づくのだ、我等が使命を」
そう言い残し、ヴァキュアスは姿を消した。疲弊から意識が朦朧とする中振り向くと、ヘルメットを被り制服を着た、SF映画に出てくる防衛隊のような恰好の軍団が立っていた。中心の人物がローザに近寄る。
「メシアの反応を辿ってみれば、まさか再び会えるとは」
ヘルメットを外す。中から老人の顔が出た。それを見てローザは罪悪感を表情に出した。
「独断行動をしてすまなかった。以後、気をつける」
すると老人は先刻の安堵の声から一変、厳格な声音になった。
「気をつける、ではない。二度としない。これは合衆連盟総長クジョウマサヨシとしての命令だ」
『クジョウマサヨシ』だって?緋呂は身体を打ち震わせながら起こした。ローザの言っていた『クジョウ』がまさか、行方不明となった祖父のことを指していたなんて。緋呂は声を潤ませて言った。
「お祖父ちゃんだよね?生きていたんだ」
緋呂の方を向き、九条正義は笑みを浮かべた。
「おお、緋呂じゃないか。こんな所で会えるとは思わなかった」
さっきまでの業務的な口調とは違う、いつもの剽軽な祖父に戻っていた。緋呂は祖父と抱き合い、事を一から十まで話そうとした。しかし正義は緋呂が話す前に、業務的に口を開いた。
「緋呂。実は今の戦いを見て考えたんだ。どうか合衆連盟に力を貸してくれないだろうか。近々起こるであろう、全面戦争のために」
船長が言っていたエル王国への対抗勢力。そのリーダーが自分の祖父というだけでも唖然とする話だというのに、機関に入れとまで言われた。それも、エル王国を滅ぼすために。緋呂の頭は情報を処理しきれず、パンクしそうになっていた。
戸惑いはローザも同じだったようだ。
「話が違うぞ、クジョウマサヨシ。私を擁立させ、メイデンの教えという規範を取り戻すことで平和を実現するんじゃなかったのか?」
初耳だった。ローザはそう聞かされていたのか。しかし、祖父は涼しげに否定した。
「おや、君にはそう聞こえたか。私は君にメシアとの架け橋になってほしいと頼みこそはすれ、そこまでのことは一言も望んでおらなんだのだがね」
緋呂は祖父を訝しんだ。どう見ても揚げ足を取って人を裏切ったようにしか映らない。緋呂の嫌う人間の特徴そのままである。年に数回の付き合いとはいえ、祖父は緋呂の人格を知らない訳ではないはずだ。ならば何故、わざわざ勧誘に不利な姿を見せるのか。
眉間に力の入る緋呂に、正義は諭すように言った。
「緋呂、ずいぶん不機嫌だね。わかるよ。昔から緋呂はこういう態度を非常に嫌っていたからね。でも、仕方ないんだ。エル王国が各所に部隊を派遣したとの情報が入ったから。それに対処するにはもう、全面戦争を仕掛ける以外に無いんだよ」
「でもそれは…」
ローザを裏切る理由にはならない、と言いかけたところで、正義は緋呂の口に手をかざしてきた。
「エル王国は人々を虐げている。力に物を言わせ、世界を自分達のものにしようとしている。両親がしてきたこととよく似ているとは思わないかな。私がしたいのは、そんな理不尽を断罪することなんだ」
確かにそうだ。九条財閥は様々な企業や人物を取り込んできた。まるでエル王国のように。そうした野蛮な行為を緋呂は憎んで止まなかった。だからこそ父母を怪物と罵るに至った。緋呂は祖父の言うことが尤もだと感じられた。
「弱肉強食を世の摂理のように言う人もいるだろうが、私は違う。人は平等であるべきなんだ。瑞乃もそんな世界を望んでいたはずだ。だから緋呂、協力してほしい。私の、いや、私達の理想を叶えるために。君の力で世界を救ってくれ」
瑞乃も願っていたはずの世界を実現する。それは元の世界では成せなかったことだ。けれど今は力がある。ヴァキュアスが狙ったこれで何かを変えられるのなら、躊躇うことなど何もない。無力な今までの自分とは違うのだ。
「待ってくれ、ヒロ」
祖父の手を取ろうとすると、ローザの声が聞こえた。斑の感情が込められているのであろう顔で、ローザは言葉を続けた。
「お前はいいのか?戦う度、その力を使うことになる。様々なものを失うことになる。ミズノという女のことも忘れるかもしれないんだぞ。それでいいというのか?お前は」
緋呂はローザの目を見ずに答えた。
「いいよ。それで瑞乃の願いが叶うなら」
そうだ。自分が覚えていればいいなんて、ただの自己満足でしかない。自分が助かりたいだけの屁理屈に過ぎない。無力な人間のすることだ。でも、もう違う。理想を叶える力がある。これで瑞乃の描いた世界を実現できる。なら、自分がいなくなっても構わない。この手に何も残らなくても、瑞乃の世界が残ればそれが僥倖なのだ。
緋呂は正義の手を取った。
「わかりました、総長。力を貸します」
正義の顔から笑みがこぼれた。
「それでこそ私のメシアだ」
緋呂の踏む焦土に、胡蝶蘭が埋まっていた。
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