第十二滴 生き方を違える

 星が光を放つ。今宵、月は顔を見せていないようだ。家々の窓はすっかり明かりを消しており、地を照らす蛍光灯に慣れた身としては、どちらが天だかわからない奇妙な光景だった。

 ひとしきり見終え、緋呂はまた別のことを考えた。何をしようか。何かしていなければ、怖さに押し潰されそうだった。眠れないという、生物の根本からすっかり外れてしまった自分をまざまざと知覚するようで。ただ、それ以上に、逃げる手段を奪われたのが堪える。あの日から七年間、眠れば全てが夢になってくれると信じ続けた。虚しい願いとわかっていても、希望を抱き続けた。眠りから覚めれば、いつものように瑞乃が自室でいぎたなく眠り呆けていてくれるのではないか、と。

 ヒュブリスは緋呂のことを流血騎と呼んでいた。あれが意味するのはつまり、緋呂はエル王国に目をつけられてしまったということだ。きっとこれから、緋呂を標的とした攻撃も少なからず行われるだろう。その度に緋呂はクロスカリバーを出さねばならない。その度に、何かを失わなければならない。名前、睡眠ときて、今度は何が犠牲になるというのか。

 緋呂の頭が貧血気味にふらつく。怖くてたまらなかった。弱音を吐いて、世界の隅で隠れて過ごせるなら、どれだけ楽なことだっただろうか。だが、それはできない。ローザの顔を見つめる。瑞乃と瓜二つの少女がそこにいる。もう、失いたくないのだ。たとえ妹本人でなかろうと、あの姿を二度と失いたくはなかったのだ。

 しかし、緋呂は思い直した。フラッシュバックが起きたのだ。眠ることに甘美な優しさを見出だし、名残惜しささえ感じていた緋呂の脳に、夢の内容が甦ったのだ。七年間、全てを悪夢で片付けたくてベッドに入った。だが、眠れば決まってあの夢を見た。毎日、異なる形で瑞乃が傍から離れていくのだ。夢の中の瑞乃は車に轢かれ、海に溺れ、漏電に身体を焼かれ、岩に四肢を砕かれた。瞼を閉じるだけで、こんな地獄が待っていた。

 どうして今まで忘れていたのだろう。いや、どうしていきなり思い出したのだろう。一寸先の影に目をやる。深い闇に染まり、何も見えなかった。緋呂はただ、影に向かって身をかがめた。暗中に答えを求めた。どうしてこんな力を授かったのか、と。

 気がつけば、光が顔を出していた。果たして、納得するような回答など出はしなかった。自分の理解の範疇に収めきれないものがある。緋呂はそれを恐ろしいことだと感じた。唇を噛む緋呂の耳にローザの声が入ってきた。

「早起きには自信があったんだがな」

 言葉遣いこそ凛々しかったが、寝起きの顔は隙だらけと形容して違わないほど蕩けていた。こういう仕草をされると、嫌でも瑞乃が重なる。瑞乃も朝は弱かった。半分も開いていない瞳でベッドからゆっくり起き上がり、陽気な口振りをするのだが、寝ぼけた身体がそれに着いて行っていないのだ。その様子が妙におかしくて、毎朝笑っては瑞乃に拗ねられたものだ。そのくせ、当人は朝が大好きだった。なんでも、朝は光も影も皆が仲良しだからなんだとか。今でも意味はよくわかっていない。けれど、その言い回しが瑞乃らしくて今でも印象的な言葉である。

 緋呂が儚い思い出に浸っていると、ローザは緋呂のベッドの方へ首を伸ばしていた。

「お前、寝ていないのか。それとも地面か。もしくは立って寝たのか」

 緋呂はローザに目線で咎め立てられた。無用な心配をかけたくないので、適当な言い訳を考えた。

「立って寝た」

 だが、ローザは腑に落ちない顔を解かなかった。そして、緋呂の服の襟口を掴んで言った。

「では、何故この服に皺一つ残っていないんだ?」

 痛い所を突かれた。ローザの言いたいことは恐らくこうだ。立って眠る場合、人間は楽な姿勢をとるために壁に寄りかかる。そうすると、眠っている間に重心がずれていく。だから、よほどサイズの小さい服でも着ていないなら、服にその時の皺が残っていないとおかしいのだ。

 誤魔化したところで押し問答が続くだけだろう。緋呂は観念し、昨晩のことを話した。ローザは驚きも、憐れみもせず、無言で立ち尽くしていた。緋呂はローザを元気づけようと、必死に明るく努めた。

「そんな顔しなくて大丈夫。逆に言えば24時間動けるってことなんだから。元々夢見が悪かったし、不幸中の幸いってやつだよ」

「バカ言うな」

 ローザが怒号を上げた。肩が小刻みに揺れている。朝日がローザの身体に影を作る。

「お前はどうして強がるんだ。つらくない訳が無いじゃないか。眠れないことが、幸いなはずが無いじゃないか」

 結局、二人は互いに話すこともせず、宿を後にした。いくら定住先が無いとはいえ、この村に長居するのも気がひけるのだろう。実際、こうした田舎町は往々にして、既に強国なコミュニティが完成されていることが多い。要は、外様を寄せつけない内輪社会が基礎にあるのだ。ローザがどのような理由で出ていくのかはさておき、緋呂はそうした事情が原因であると推測してローザに着いて行った。

 すると、後ろで声がした。歯切れの良い発音からして行商人だろう。振り向くと、予想通り行商人とおぼしき集団が村にやって来ていた。緋呂の横を通り過ぎる子供達がそれを見て、何の悪気もなく、朗らかに言った。

「エルのお姉ちゃん達だ」

 ローザが足を止めた。緋呂も耳を疑った。頭が真っ白になった。明らかにエル王国を歓待している。メイデンの教えの禁忌を破り、武力で異世界を制圧しているエル王国がどうして歓迎されているのか、緋呂にはわからなかった。緋呂が戸惑っている最中、ローザは集団の方に駆け寄っていた。それなりに距離はあったが、はっきりと声は聞こえてきた。

「エルの犬が何の用だ」

 集団のリーダーと思われるコートの女性が何食わぬ態度で何かを言った。ローザの語気がいっそう強くなった。

「ふざけるな。お前達が私の家族に、私達の国に何をしたか。忘れたとは言わせないからな」

 すると、村の人々がローザを取り押さえ始めた。その様子を見て、緋呂も黙ってはいられず、渦中に飛び込んだ。

「やめてください。小さな女の子相手に何をしているんですか皆さんは」

 緋呂も意図せず声が荒くなる。大局的な物の考え方をするのなら、ローザが失礼を働いているのは理解できる。それでも、緋呂は我慢ならなかった。たとえ本物の瑞乃でなかろうと、その姿が傷つくこと自体が許せなかったのだ。

 そんな緋呂の剣幕に押されてか、村の人々も潮が引くようにローザから離れた。だが、目は苛立ちを抱えたままだった。

「旅の方々にこんなことを言うのも悪いですが、今すぐこの村から出ていってください」

 村人の一人が不満を顕にして言った。

「あなた達がエル王国にどのような仕打ちを受けたかは知りませんし、それを蔑ろにするつもりはありません。けどね、少なくとも私達はそこの方々から生活を助けてもらっているんですよ。自分達の価値観で勝手に貶めるのはやめてくれませんか。結果を被るのは私達なんですから」

 ローザはそれを聞いていよいよ憤怒が頂点に達したのか、血色を強めて言った。

「自分達が可愛いから、他の人間はどうでもいいというのか、お前達は!」

 村の人達も聞き捨てならぬとばかりに、罵詈雑言をローザに浴びせた。緋呂はこの状況に耐えられず、両者の間に割って入り叫んだ。

「いい加減にしてください!もう、いいでしょう?僕達は出ていきます。それで全てが元通りです。それでいいでしょう?」

 ローザの手首を掴み、緋呂は早足でその場を去った。嫌悪の視線が突き刺さる。だが、緋呂はそれを至極当然のことと捉えた。自分達は所詮外様だ。彼らの価値観をとやかく言う資格はない。そうした合理的な言い訳を考えていた。

 そんな緋呂の心を見透かしたかのように、ローザは呟いた。

「利口なフリをして。結局、逃げただけじゃないか」

 多分、そうかもしれない。いや、そうなんだ。ヒュブリスの時もそうだった。嫌な空間には絶対いたくない。生まれた時から九条家のしがらみを味わってきた身としては、もはやそれが癖になってしまっていた。大層な志を掲げて、反骨心を持って、でも結局は都合のいい場所にしかいたくないのだ。本当に、弱いものだ。九条緋呂という男は。

 だが、緋呂の頭を縛りつける鎖は一瞬にして裂かれた。断末魔の響く方へ振り向くと、村のあった所には暗い炎が立ち込めていた。ほんのわずかの内に、村は焦土と化した。

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